第2話 鍵【下】

 あれから、十日――。

 結局、帆波は一度もウチに来ることはなかった。


 あの一件のあと、学校から帰ってくるたび、気が気じゃなかった。いちいち、心臓を騒がせながら扉を開け、見慣れたサンダルが玄関に無いのを確認するなり、ほっと溜息を漏らした。

 結局、俺はどうすればいいのか――兄貴にカノジョがいることを帆波に伝えるべきなのか、このまま、知らんふりを決め込むべきなのか――俺の中で考えがまとまることもなく、ただ、帆波と顔を合わせないで済むよう……帆波がウチに来ないことを祈った。

 そうして、帆波がいないことを確認するたび、よかった――と思いながら、後味の悪い虚しさを覚えた。いない、と分かっていても、つい、リビングで未練がましくその姿を探してしまう。ソファに踏ん反り返って『なによ?』と睨みつけてくる奴がいないことに、やっぱり、物足りなさを感じて、そんな自分に遣る瀬無さを覚えた。


 帆波に会いたい、て思っているのは明らかで。本当は、帆波に会いたくてたまらないのに――帆波がいないことを祈りながら家に帰る。その矛盾に心がすり減らされていくようだった。


 いったい、俺は何をしたいんだ――とぼんやり自問しながら、ベッドの上に寝転び、特に好きでもないスマホのパズルゲームをまるで作業のようにこなしていた。

 気持ちに整理をつけるはずだった。帆波への男としての感情は捨てて、ただの幼馴染に戻ろう、とそう覚悟を決めたはずだった。そんなときに、兄貴がとんでもない事実をぶっこんできて、それどころじゃなくなって……そのまま、十日が経ってしまった。さあ、部屋を片付けよう、と思った矢先に、時限爆弾でも置いていかれたような気分だ。

 だから、帆波への気持ちはまだしっかり残っていて――持て余したまま、ずっと心の奥底で燻っていた。


   *   *   *


「幸祈!」


 そろそろ、腹が減ってきたな、と思い始めたときだった。

 コンコン、と扉をノックする音がして、母親の声が聞こえてきた。


「なに?」


 また、何か小言を言われるのだろうか、と億劫に思いながら身体を起こすと、ガチャリと扉を開けて、母親が顔を覗かせた。雑に一つに後ろでまとめた髪は、兄貴に似て癖っ毛で、その温和そうな顔立ちも兄貴に――そして、帆波に言わせれば、俺にも――似ている。もう五十代に差し掛かり、痩せた顔には濃い皺があちこちに走り、老い……というものが言動にも表れるようになってきたが、


「まだ寝てたの?」と、ベッドの上の俺と目が合うや、般若の如く、くわっと顔を顰め、「明日から学校なんだから、シャキッとしなさい! 課題は終わってるの? せっかく、天気もいいんだから、窓開けて換気くらいしたらどう? ウチはどこも男臭くて、ほんと嫌になるわ」


 そう捲し立ててくる勢いはまだまだ元気で、もはやホッとする。

 ズカズカと部屋の中に入ってきて、窓を開ける母親を目で追いながら、


「起きてたよ。課題も終わってる」


 ため息交じりに言って、ベッドから降りる。


「それで……何? 窓開けに来たの?」

「ああ、そうだった」開け放たれた窓からするりと入り込んでくる心地よい風に、満足そうに目を細めてから、母親は思い出したように振り返った。「あんた、家の鍵、持ってる?」

「家の鍵?」


 なんだ、突然?


「これね……ソファのクッションの間に挟まってたのよ。お父さんのお尻に刺さって、さっきは大騒ぎだったんだから。――あんたの?」


 母親が見せてきたのは、確かに、鍵だった。キーホルダーも何もつけていない裸の鍵。


「いや……たぶん、違うと思うけど……」


 昨夜、コンビニから帰ってきて、ちゃんと財布に入れた記憶がある。そのあと、家の中で出した覚えはない。

 一応、机の上に置きっ放しにしてあった財布の中を確認した。やっぱり、そこには自転車の鍵と一緒に家の鍵も入っている。


「俺のはちゃんとあるよ」

「ああ、そう」と不思議そうに言って、母親は首を傾げた。「ヒロのでもない、て言うのよね。それじゃあ……帆波ちゃんのかしら?」


 え――とぎくりとして、つい、「帆波!?」と大仰に驚いてしまった。

 そんな俺を怪訝そうに見ながら、


「ウチの鍵持ってるのは、他には帆波ちゃんだけでしょう。――今も、よくウチに遊びに来てる、てヒロに聞いたわよ」

「え……ああ……まあ……」

「そうそう、あんたね……帆波ちゃんが遊びに来たら、お夕飯くらい誘いなさい! 母さんは八時には帰ってくるんだから。帆波ちゃん、よくお家で一人で食べてるんでしょう? 帆波ちゃんの分くらい、母さん、いくらでも作るのに。母さんだって、帆波ちゃんと会いたいのよ。高校の話だって聞きたいし……」

「ああ……うん」


 母親の話は耳に入ってきても、全然頭には入ってこなくて。生返事しかできなかった。

 心臓が急に荒れ狂うように激しく鼓動を打ち始め、財布を持つ手が僅かに震えていた。

 帆波の鍵……? なんで、ソファに……? 落としたのか? この前、来たとき? それじゃあ、帆波は……ウチの鍵を持ってなかった、てことか? この十日間、ずっと――。

 まさか……と息を呑む。


 あれから、ウチに顔を出さなかったのは、鍵がなかったから……?


 あのあとすぐに――確か、四日くらいで――GWに入った。平日はほぼ毎日のように来ていた帆波が、四日も来ないのはおかしい、とは思ったけど……GW中に家族でキャンプに行く、て聞いていたし、(キャンプなんて行ったことないからどんなもんなのかよく知らないけど)その準備で忙しいんだろう、なんて思っていた。GWに入ってからも、そうだ。もともと、親に遠慮しているのか、土日とか休みの日は上がり込んでくることはなかったし、キャンプもあるし……と勝手に納得して、十日も開いたことに何の疑問も持たなかった。GWのお陰で考える時間が稼げて良かった……とまで思っていたんだ。

 でも……もし、それが全部、違っていたとしたら? もし、鍵が無くて来れなかっただけで……ずっと、この十日間、鍵を探していたんだとしたら?

 それこそ、俺の思い過ごしかもしれない。ただ単に、本当に忙しかっただけで、鍵を失くしたことにも気づいていないのかもしれない。

 それでも……。

 どうしよう、鍵、失くしちゃった――なんて、帆波は人に言えるような性格じゃない、て俺は知ってるから。一人で涙目になりながら、必死に鍵を探す姿が思い浮かんでしまって……いてもたってもいられなくなった。

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