二章

第1話 鍵【上】

 無い……! なんで? なんで、どこにも無いの?

 ソファの上にも無くて、クッションをひっくり返してみても無くて。ソファの下を覗き込んでも無くて。

 私は床に四つん這いになって、それがどこかに落ちてはいないか、幸祈ん家のリビングの床を隈なく探していた。

 そうして、リビングの扉の前まで来た時だった。


「何か探し物かしら?」


 ハッとして見れば、スリッパを履いた足がそこにあった。

 誰? と思いつつも、そのおっとりとした声には聞き覚えがあるような気がして……。

 おずおずと顔を上げれば、


「お久しぶりね。坂北さん」


 這い蹲る私の目の前でしゃがみこみ、その子は私を見下ろしていた。

 大人しそうだけど、キラリと光る才知が垣間見えるような……素朴で賢そうな顔立ち。縁なし眼鏡の奥で、そっと目を細める様は優雅で。静かに微笑むその唇も品があった。艶やかな黒髪は、肩より下まで伸び、きっと私と同じくらいの長さ。もしかしたら――背の高さは全然違うけど――後ろ姿だけなら、私たちはよく似ている……のかもしれない。

 でも――。

 ちらりと顔から視線を下げれば、そこにあるのは、明らかに私とはかけ離れたもの。

 ほっそりとしたその体の中で、これでもかと存在を主張する豊かな胸。ふっくらとして張りがあって。ピンクのバスローブの緩んだ襟元から、今にも弾け出てきそう。同性の私でも圧倒される存在感。何か、雄大な自然でも前にしているような気分になってくる。滑らかなその白い肌には、くっきりと深い谷間の影が落ちて……って、バスローブ!?


「な……なんで、バスローブ着てるの、佐田さん!?」

「なんでって……」とその子は――同中だった佐田万由子は、さらりと長い髪を払って、ふっと物憂げに溜息吐いた。「大人の階段を登ったからよ」

「大人の……階段?」


 なに、それ? それ登ると、バスローブもらえるの? てか……待って。なんで……佐田さんが幸祈の家にいるの? なんで、佐田さんが幸祈ん家でバスローブ着てんの――!?


「こ……幸祈は……」


 ふらっと立ち上がろうとすると、「坂北さん」と呼び止める落ち着いた声がして、


「もしかして、探してたのはこれ?」


 そっと差し出されたのは、まさにだった。銀色に鈍く輝く――鍵。

 疑問も不安もぱあっと一気に吹き飛んで、あった! ――て安堵で胸がいっぱいになった。


「そう、それ!」と歓喜に満ちた声を上げ、咄嗟にその鍵に手を伸ばす。「私の鍵! ありがとう、佐田さん!」


 もう少しで、指が触れる……というところで、さっと佐田さんは鍵を持つ手を引き、自分の胸元に置いた。


「ごめんね。これ、もうなの」

「は……?」


 私のって……? 佐田さんの……てこと?

 なんで――て言おうとした瞬間、


「万由子」

 

 耳にしっくり馴染むような……聞き慣れたその声がした。でも、親しげに呼ぶその名は私じゃ無くて――。

 ぞくりと背筋に悪寒が走って、ばっと顔を上げると、


「帆波……なんで、いるんだ?」


 リビングの入り口で、開いた扉の向こうに立っていたのは、幸祈だった。

 いつもなら……口先ではどれだけ素っ気ないことを言おうと、そこには呆れながらも優しげな表情が浮かび、その眼差しは慈愛に満ちて、そんな風に見つめられるだけで安心できた。どんなに粗雑な言葉も、親しみの裏返しなんだ、て心のどこかで確信できた。

 でも、そこに居る幸祈は、まるで別人。険しく顔を顰め、佐田さんと色違いの白いバスローブを着て、他人を見るような目で私を冷ややかに見下ろして……。


「――って、なんで幸祈まで、バスローブ着てるの!?」


 ぎょっとして立ち上がって、大声を張り上げていた。


「大人の階段を登ったからな」


 ふっと意味深に微苦笑し、幸祈までそんなことを言う。

 わけが分からない。


「お……大人の階段って……なによ!? なんでバスローブもらえるの!?」

「坂北さんにはまだ早いかしら」と憂いに満ちた声がして、隣で佐田さんが立つ気配がした。「だって、まだ子供だし」

「子供って……私たち、同い年でしょ!」


 勢いよく振り返って、ハッとした。

 確かに――私は背が高いほうじゃない。背の順は小さい頃からいつも前のほうだった。幸祈や佐田さんと話そうとすると、少し見上げる感じになる。それでも……見上げるのは変だ。

 立ち上がった佐田さんの顔は、はるか頭上……に思えるほどになっていた。

 おかしい。

 佐田さんの背がいきなり二倍に伸びた――わけじゃない。周りを見れば、家具もさっきよりずっと巨大化してるし、天井も遠のいて、楕円形の照明がずっと小さく見える。それに……ちらりと視線をずらせば、幸祈までその目線はもう私が背伸びしても届かない高さにある。

 つまり――私が……縮んでる?

 自分の体を見下ろせば、Tシャツとショーパンだった服装は、花柄の薄桃色のワンピースに変わっていた。見覚えがある。小さい頃、お気に入りでよく着ていたワンピースだ。まさか……とごくりと生唾を飲み込んだ。――子供に戻ってる? でも……私だけ? なんで? どうなってるの?

 困惑している間にも、


「万由子、行こうぜ」

「そうね。待たせてごめんなさい。今度は、何段飛ばしで登りましょうか?」

「うーん。二段飛ばしかな」

「まあ。幸祈ったら。精がでるわね」


 何事もなかったかのように階段話を進め、さっさとその場を去ろうとする二人に、「ちょっと……待って!」と自分でも驚くほど高くなった声で引き止めていた。


「どこ……行くの、二人で? それに……なんで、佐田さんと幸祈が一緒にいるの? その鍵、佐田さんのってどういうこと!?」

「ああ、そうだった」


 ハッと思い出したように言って、幸祈は佐田さんのすぐ脇に並ぶと、佐田さんの肩に手を回し、ぐっと自分のほうへ引き寄せた。お揃いのバスローブ姿で。まるで……恋人みたいに。

 あ――て声を失くした。

 そこまで見せつけられたら、もう悟るしかなかった。


「ちゃんと報告してなかったな。俺、万由子と付き合うことになったんだ」


 佐田さんの肩をしっかり抱き、幸祈は誇らしげにそう言うと、「だから――」とふいに苦い笑みを漏らす。


「もうお前の子守をしていられるほど暇じゃないんだ。悪いけど、もうウチには来ないでくれ」


 心臓の音さえ、消えた。胸に大穴を開けられたかのようだった。

 もうウチには来ないでくれ――その言葉は見事に私の胸を貫いた。


 それが、幸祈の本音なの?


 子守って……そう思ってたの? ずっと……? 一緒に居たい、て思ってたの、私だけ? 本当は……迷惑だった? もう、私は邪魔……? 

 訊きたいことは山のように溢れてくるのに。泣き縋りたいくらいなのに。声も、涙も出てこない。――出す気力が湧いてこない。体の中、全部抉り取られて、空っぽにされてしまったみたいで。まるで人形のように私はその場に立ち尽くした。


 もうなす術もなくて。途方に暮れて。佐田さんと一緒にリビングを出て行く幸祈の背中を見つめながら、お願い――て祈るしかなかった。お願いだから、行かないで。これからは、もっと素直になるから。もうごまかさないから。強がるのもやめる。ちゃんと正直になるから。だから、行かないで、幸祈――。


『手遅れだペン、ほなみちゃん』


 突然、とても懐かしいような……溌剌とした明るい声が背後からした。

 ぎょっとして振り返れば、そこにはぬいぐるみが。真っ白な三角形の顔には、感情の伺えない無機質な笑み。丸みを帯びた体にはからし色のツナギのようなコスチューム。赤ちゃんみたいな三頭身のプロポーションのそれは、マントをふよふよとなびかせ、宙に浮いていた。


「は……ハンペンマン……?」


 思わず、ぽつりとその名を口にした……その瞬間、バタン、と扉が閉じる音がした。

 ハッとして顔を向き直せば、幸祈の姿も佐田さんの姿も無く、リビングの扉はぴたりと閉ざされていた。


「あ……」と力無い声が漏れる。

『自業自得だペン』


 追い討ちをかけるようなその言葉に、再び、ばっと私は振り返った。


「そ……そんなこと言う!? もっと……励ましてくれるキャラじゃなかった? てか、『ペン』なんて語尾だったっけ!?」

『何年も押入れに閉じ込められてみろペン。皆、変わるペン』


 明るい声も笑顔もそのままにそんなことを言われ、ぞっと背筋に悪寒が走った。

 そういえば……と思い出していたのは、そのぬいぐるみを貰い受けた日のこと。

 

 ――母さんが、呪われそう、とか言って、ぬいぐるみ捨てるの怖がっててさ。だから、全部、二階の押入れにしまいこんでんだよ。


 そんなことを、なんでもないかのように幸祈は言っていたけど……もうしっかり呪われてない!?


『こうきくんは諦めろペン。こうきくんは、もうバスローブを着こなすことしか頭にない男に成り下がったペン』


 な……何を言い出すの、いきなり?


「そんな……そんな幸祈、やだ……!」

『ほなみちゃんが嫌だろうがなんだろうが、関係ないペン。こうきくんは大人の階段を登っていくペン。にはもう帰ってこないペン』

「大人の階段って……なに? なんのこと?」

『ほなみちゃんは子供だから、何も教えられないペン』

「私、子供じゃ無いって……!」


 そう叫んだ私の声は、耳障りなほど甲高く辺りに響き渡って。まるで、癇癪起こした子供のそれで。

 ハッと思い出す。

 そうだ――私、子供に戻ってるんだ。


『ほなみちゃんはボクと一緒にずっとここにいればいいペン。こうきくんとの思い出に浸りながら、帰ってこないこうきくんの帰りを永遠にボクと待てばいいペン』

 

 最悪……。そんなの、厭だ。

 びりっと全身に電流が走ったようだった。ようやく、体に自由が戻ったみたいで。咄嗟に身を翻し、リビングの扉へと一目散に向かった。

 逃げなきゃ、て本能的に思った。幸祈のところに行こう、て。

 必死に背伸びして、ドアノブに手を伸ばし、レバーを下げようとした……のに。


「動か……ない?」


 何度下げようとしても、それはぴくりともしなかった。

 なんで……? て思う間も無く、


『テッテテー』と、どこかで聞いたようなメロディーを口ずさむ声がして、『どこにも行けないドア〜』

「なに、それ!? ただの壁じゃん!」


 さすがにイラッと来て、レバーから手を離して勢いよく振り返る。


「いい加減にしてよ。ここから出して! 私、やっぱり……幸祈のこと、探しに行く」

『今さらだペン。自業自得、て言ったペン。今まで、いくらでもここから出られたのに、ずっと出ようとしなかったのはほなみちゃんだペン』


 声だけは明るいくせに、気味が悪いくらいに淡々とした口調で言って、ハンペンマンはすいっと宙を滑るようにして私の目の前まで飛んできた。

 感情がまるで無い豆粒みたいな目が、じっと私を見据えていた。

 金縛りにあったみたいに身体が硬直する。扉に背を張り付けるようにして、私はごくりと生唾を飲み込んだ。


『だから、ほなみちゃん』とハンペンマンはおどろおどろしく続けた。『とりあえず、ハンペンになってよ』


 なんでよ……!? ――と、ハッと目を見開き、


「あ……」


 気の抜けた声が漏れた。

 見上げた天井は、さっきまでのそれとは違っていて。辺りは、長閑な陽の光に満ちていた。

 疲れたような、安堵したような、ため息が漏れた。

 なんだか、ひどく身体が重たく感じる。のっそりと上半身を起こし、ぼうっとした意識の中で周りを見回した。

 少し開いた薄桃色のカーテンの間から――もう昼近くなのだろう――朝日とは思えない煌々とした光が差し込み、部屋の中を照らしていた。見慣れた白いデスクに、部屋の真ん中には丸いローテーブル。本棚には漫画や雑誌が並び、壁にかけられたコルクボードには、中学のときの友達との写真が何枚か貼られている。

 私の部屋だ。

 大丈夫――と、ベッドの上に座りながら、胸元に手を置いた。


 ただの夢だ。……。

 

 それでも、心臓の鼓動はまだ早くて、落ち着くのにしばらくかかった。

 ちらりと枕元に目を向ければ、そこには、ハンペンマンのぬいぐるみが横たわっていた。GWが始まる前に、広幸さんから譲り受けたもの。幸祈との思い出が詰まったぬいぐるみ。相変わらず、生気のない目で天井を見上げ、物言わずに微笑んでいる。もちろん、ハンペンマンは、変な語尾をつけて喋り出したり、宙に浮いたりはしない……けど、譲り受けてから、十日、同じような夢を見続けている。悪夢――と言っていいそれのせいで、ずっと寝不足気味だ。


「んー……」


 全然、寝れた気がしなくて。頭が鈍く痛む。

 再び、ごろんとベッドに横たわり、ジトッとハンペンマンを睨んだ。


 夢でくらい、忘れさせてよ。もう失恋確定だ、てこと……。


「お祓いしに行っちゃうわよ」


 脅すようで、懇願するような想いで、私はぼそっと呟いた。

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