第14話 好きな子【下】
「佐田……万由子ちゃん……? そんな名前、初耳だなぁ」
顎に手を置き、兄貴は不思議そうに呟いた。
つい、ぎくりとしてしまう。
そりゃ、そうだ――と心の中で吐き捨てる。
佐田さんの名前なんて、学校でもろくに呼んだことはない。兄貴に突っ込まれて、パッと浮かんだ女子の名前が佐田さんだっただけだ。クラスで唯一の同中で、中学でも同じクラスになったことがあって、偶然、フルネームを知っていた――ただ、それだけの理由で、口にしただけ。
でも、それを兄貴に悟られるわけにはいかない。
「当たり前だろ」必死に平静を装って、語調を強めて言い返す。「いちいち、兄貴に好きな子のこととか言わねぇよ」
すると、「だよな」と間髪入れずに兄貴は切り返しきて、
「好きな子の名前なんて、思春期真っ盛りの高校生が、家族にバカ正直に言うわけないよな。たとえ、訊かれても――」
意味深に言われて、ハッとした。
兄貴が言わんとしていることを全部理解したわけじゃない。それでも……なんとなく、自分が何か墓穴を掘ったことは悟った。
「幸祈はあれだな」気を取り直すようにため息吐いて、兄貴は憫笑のようなものを浮かべた。「浮気したら、アリバイをガチガチに固めすぎて逆にバレるタイプだな。アリバイ作りにレシートまで念入りに用意しちゃって、『なんで、その日だけ、レシート全部取ってあるのよ!?』って詰め寄られちゃう、みたいな」
「な……なんの話だよ!?」
「俺の友達の話だな」
はは、と呑気に笑ってから、兄貴は「それで――」と急に声を落とし、眼鏡の奥で目を眇めた。
「なんで、好きな子がいるなんて嘘吐いたんだ?」
パシン、といきなり顔を平手打ちでもされたような衝撃だった。
嘘って……断言しやがった。
もう全部分かってるから、とでも言いたげなしたり顔。もはや、『嘘じゃねぇよ!』って食い下がるのもアホらしく思えてくる。
これ以上は、無駄な抵抗……てやつだな。
一気に緊張が解けて、だらりと身体から力が抜けた。
「帆波と兄貴の……邪魔になりたくなかったんだ」
視線を逸らし、諦めたようにぼそっと言うと、一つ間があってから「は?」と惚けた声が聞こえた。
「俺と帆波ちゃん? 邪魔って……?」
ぐっと顔が強張る。
俺が帆波を好きだ、て兄貴が思っている限り、きっと、兄貴は帆波を恋愛対象には見れない。そんな気がしたから……その事実を消さないと、と思ったんだ。たとえ、好きな人をでっちあげてでも、それを――俺が帆波を好きだ、てことを――ただの『誤解』にしよう、と思った。そうでもしなきゃ、帆波はずっと片思いのまま。いつまでも幸せにはなれないと思ったから……。
「俺のことは気にしないでいい。だから、もっと真剣に帆波と向き合ってほしいんだ」
深く息を吸い、兄貴を真っ向から睨みつけるように見つめ、俺ははっきりとそう言った。
いつも飄々とした表情を浮かべる兄貴の顔が険しく顰む。
「なんで、俺が帆波ちゃんと向き合うの? それは、幸祈――」
心底困惑した様子でぶつくさ呟いたかと思えば、急に、何か思い当たったかのように「あ……!」と目を見開き、
「ああ……そういうこと!? だから、曖昧な態度とか……俺に言ってきたのか!?」
ん――?
なんだ、その反応?
「幸祈、あのな」と兄貴は慌てた様子で歩み寄ってきて、目の前まで来ると「お前、勘違い……」と何かを言いかけ、口を噤んだ。
まるで、時が止まったかのように。兄貴はじっと黙り込んで静止。何か考え込んでいる風だが……このタイミングで、何を考えることがあるんだ?
「勘違いって……なんだよ?」
訝しげに見上げて訊ねると、兄貴はフッと表情を和らげ、
「――俺、カノジョいるんだよね」
「は……?」
カノジョ……!?
「な……なんだよ、カノジョって……!?」
「お付き合いしている人だな。できれば、結婚を前提に」
「そういうことを聞いてるんじゃねぇよ!」
「だから、帆波ちゃんと付き合えないし、そもそも付き合う気はさらさらない。帆波ちゃんは俺にとって可愛い『妹』で、それ以上でもそれ以下でもない。バージンロードを歩く帆波ちゃんのウェディングドレス姿を『綺麗だよ〜』と後ろから号泣しながら見守るのが俺の夢で、横に並ぶ気は無い。――以上。俺は大学に戻る」
へらっと緩ませた口で淀みなくそんなことを言って、兄貴は満足げに歩き出す。
って、いや……『以上』じゃねぇだろ!
「それ……カノジョいる、って、なんで、帆波に言わないんだよ!?」
リビングの扉へと向かう兄貴の背中に追いすがるようにして訊ねると、
「訊かれてないからな」と振り返りもせずに兄貴は答えた。「俺も一応、もう大人だし。カノジョできた、て大はしゃぎで人に言いふらす歳でもないのよ。お前も嫌だろ。俺が、カノジョできた、て近所に言い回ってたら」
「そりゃ、嫌だけど……って、そういう話じゃなくて! 帆波は……」
「『兄貴のこと好きなんだぞ』、か? 帆波ちゃんからはっきり、そう聞いたのか?」
「いや……」
「俺も聞いてない。告られてない。だから、俺は何もしない。それをどう思うかは、お前の勝手――だけど、俺の知ったことじゃない」
ちょうど、リビングを出たところだった。
ようやく足を止めたかと思えば、口ごもる俺に振り返り、兄貴は若干だが鋭さのある口調でまくし立てるように言った。
「帆波ちゃんがかわいそうだと思うなら、お前が自分でなんとかしろ」
「なんとかって……」
「一つ、言っとくけどな。好きだと思えるような子に、またいつでも巡り会える……とか思うなよ」急に神妙な面持ちになるや、兄貴は俺の鼻先をビシッと指差してきた。「合コン、街コン、マッチングアプリ……この先、待ってるのは群雄割拠の戦国時代だぞ」
「な……んの話だよ?」
いつものことだけど。また、意味の分からないことを。
呆気に取られていると、兄貴は肩を竦めてへらっと笑った。
「せっかく、好きな子がいるんだ。ちゃんと大事にしろよ――てこと。えっと、佐野さん……だっけ?」
誰だよ、と心の中でツッコンでいた。
でも、佐田さんだよ、てここで訂正するのも妙な感じがして……俺は苦笑だけして、兄貴の嫌味とも冗談ともつかない言葉を流した。
レポートを取りに行くんだろう。階段を登っていく兄貴の背中を見送りながら、なんとも釈然としない思いが胸につかえているのを感じていた。
ちゃんと大事にしろよ――て、諭すようでもなく、叱るわけでもなく、まるで励ますように言った兄貴の言葉が、やけに耳に残っていた。
帆波のこと、大事にしてる……つもりだったのに。なぜか、何も言い返す気が起きなかった。嫌なところを突かれたような……そんな後ろめたさがあった。
自然と重い溜息が漏れて、目線が玄関の扉へと向かっていた。
兄貴は帆波を『妹』だときっぱり言い切った。カノジョもいるし、付き合える可能性はゼロ……なんだろう。
で……? ここから、どうなる? どうすればいい?
何も知らずに、帆波はまた兄貴に逢いに来るんだろう。その度、俺は何も知らないふりしてやり過ごすのか? 帆波が兄貴に告ってフラれるまで見届ける? いや……それって、どうなんだ? じゃあ、帆波に言うのか? 『兄貴にカノジョいるらしいぞ』って……? いや――どんな顔で言えばいいんだよ。そもそも、そういうのって、俺が言うべきことなのか? 帆波だって、やっぱ、
分からねぇ――。
頭痛のようなものを覚えて、頭を抱えた。
なんとかしろ、て……無茶振りだろ。
*ここでひとまず、一章が完結となります。二章で一区切り……の予定ですが、私の文章は長くなることが多いので、どうなるのかちょっと分かりません。
応援♡や応援コメント、レビュー☆もたくさんいただきまして、本当に励まされています。この場を借りて御礼申し上げます!
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