第13話 好きな子【上】
玄関を出てすぐ、扉の鍵を閉めようとショーパンのポケットに手を伸ばし……そのときになって、私はハッと気がついた。
いつもそこに入れているはずのそれが無い。
嫌な予感が背筋を走る。
そういえば……覚えていない。私、鍵――どこにしまったっけ!?
最後に鍵を出したのは、リビングのソファ。幸祈のことを想いながら、それを抱きしめ……そのまま、寝落ち。気付いたときには、幸祈が帰ってきていて、いつものように喧嘩して……鍵をしまった記憶なんてカケラもない。
つまり……だ。寝ている間に落としたんだ。リビングのソファか、床か。
取りに戻らないと――と咄嗟に玄関のドアノブに手をかけ、そこでぴしりと体が凍りついたように固まった。その瞬間、脳裏に浮かんだのは広幸さんのあの眼差しで。『分かってるよ』と言わんばかりに向けてくるあの生暖かい眼差しを思い出すだけで、身体がじわじわ熱くなってくる。
ああ、厭だ……。
広幸さんのことは大好き。尊敬してる。でも、あの眼差しは厭――。あの眼差しで見つめられると、全部、見透かされているようで……ずっと必死に隠してきたものを幸祈の前で暴かれるみたいで……。裸でも見られているような気分になって、恥ずかしくて、落ち着かなくて、怖くなる。
できれば――と祈りながら、そうっとドアノブのレバーを下げて扉を開いた。
広幸さんは『レポートを忘れたから戻ってきただけ』って言ってた。きっと、すぐにでも大学に戻らなきゃいけない……はず。さっさとレポートを取りに自分の部屋に上がって、リビングにもういない可能性は十分考えられる。
だから、こっそり、忍び込もうと思った。できれば、広幸さんに気づかれないように……と。
でも、玄関に足を踏み入れてすぐ、広幸さんの声が聞こえてきた。
二階に繋がる階段は玄関のすぐ目の前。それを挟んで左に進めば和室、右に進めばリビングがある。「だからさ」と呆れるようなその声は、右から――つまり、リビングからした。
「そういうのはいい、て言っただろ。俺に嘘吐いてどうすんの。誰得なの?」
フツーに会話中。急いでいる様子もない。読みは大外れだったようだ。
ダメだったか、とひっそりとため息吐いて、後ろ手に扉を閉じようとした、そのとき、
「嘘じゃねぇよ」と返す幸祈の刺々しい声が聞こえて、「俺……学校に、好きな子いるし。だから、変な誤解されて、帆波に余計なこと言われたら困る」
目を見開き、息を呑んだ。
え――て、思わず声を漏らしそうになった。
なに? なんの話……? 好きな子……って?
「好きな子? 付き合いたい女の子……てこと?」
「そうだよ。他にどんな意味があるんだよ?」
「名前は? 何組? 出席番号は?」
「出席番号!? そんなの……覚えてねぇよ」
「名前とクラスはさすがに覚えてるだろ? 本当に好きな子がいるなら、だけど」
やだ。待って……ちょっと、待って。
広幸さん、訊かないで。今、それ、訊かないで。私、聞きたくない――。
「同じクラスの……子。佐田さん。佐田
早く逃げなきゃ、て思ったのに。耳を塞ぎたかったのに。
間に合わなかった。手遅れ……だった。
聞いちゃった。幸祈の好きな子の名前……聞いちゃった。
息が……できない。胸が苦しい。
目の奥が熱くなっていく。足元を見つめる視界がどんどんと歪んでいく。
今にも嗚咽が漏れてしまいそうで――。
私は倒れかかるようにして扉を開けて、外に飛び出していた。
出た瞬間、叫び出しそうになるのを必死に抑えて、音を立てないように扉を閉めた。
太陽も沈み、すっかり辺りは暗くなっていた。素っ気なく冷たい風が吹き付けてくる。もうすぐ五月とはいえ、Tシャツとショーパンじゃ、さすがに寒い。バカみたい――て、自嘲のようなものが溢れる。私、何……やってんだろ。こんな格好で……。
ぎゅっとハンペンマンを抱きしめ、その場に崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
「そっか、佐田さんか……」
ぽつりと、か細い声が漏れていた。
佐田万由子――その名前を私は知っていた。
同中だった子だ。高校で同じクラスになった、て幸祈が言ってた。
背が高くて、スタイル良くて、縁なしメガネが良く似合う大人っぽい子だった。物静かで、お淑やかで、成績も良くて。落ち着いた雰囲気のある……私と正反対の子。
なるほど……て思っちゃった。納得できてしまった。
――幸祈が私のこと、好きになるわけなかったんだ。
ぽろりぽろりと堪えきれなくなったものが目から零れ落ちていく。
しゃがみ込んだまま、私はハンペンマンに顔を埋め、必死に嗚咽を押し殺した。
自分の体がガラス細工にでもされてしまったかのようだった。ピシリと、どこかにヒビが入る音がした気がして。今にも自分が粉々に崩れ去ってしまいそうで。怖くてたまらなくなる。心細くて、寂しくて……そういうとき、恋しくなるのはやっぱり幸祈で。抱きしめてほしい、なんて思ってしまう自分がまだ心の中にいて……情けなくなる。
ほんと、救いようがない。
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