第10話 好意の証【下】
俺と一緒に居たい……?
帆波がそんなことを言うなんて。いったい、何年振りだ?
昔から、帆波はわがままで勝ち気なところがあったけど、それでも、小さい頃は、『幸祈が一緒だから平気だもん』とか、『幸祈と遊ぶのが一番楽しい』とか、そういうことを口にする可愛らしさはあって。まあ、子供らしく喧嘩をすることもあったが、いつも最後は丸く収まり、俺たちの仲は実に平和なものだった。それが――お年頃というやつなのか――いつからか、脱皮でもしていくかのように帆波は徐々に可愛げを失くしていって、見た目だけは無垢で愛くるしいまま、その口から吐かれる言葉は毒々しいものへと変わっていった。
気づけば、顔を合わせるたび、『はあ!?』とあからさまに邪険にされる日々……。
幸祈と一緒に居たい――なんていじらしい言葉を、また耳にする日が来るなんて思ってもいなかった。
じんと胸の奥が熱くなる。
まずい。フツーに感動してる……。
バカみたいに感極まって、言葉も出てこない。
顔中ムズムズとして、口許は勝手に緩んでいって。ごまかすように鼻を掻いたその手も、そこからどうすればいいかも分からない。
いや――マジで。どうしろっていうんだよ!?
帆波のやつ。不意打ちすぎだ。ヘンタイマン、と散々人を茶化してきておいて、その舌の根も乾かぬうちに、『一緒に居たい』だ!? なんなんだ? どういうつもりだ? なんで、そんな急に……!?
――と、そこでハッとする。
そうだ……なんで、急に帆波はそんなことを言い出した?
一瞬にして、さあっと血の気が引くように、興奮が冷め切っていった。
冷静になるや、ほんの数秒前の自分が――帆波の一言に、我を失うほどに舞い上がっていた自分がとてつもなく、恥ずかしく、情けなく……そして、腹立たしくなった。
さっきまで興奮に沸き立っていた体が、今度は怒りに奮え始めていた。
鼻を掻いていた手をゆっくりとおろして拳を握りしめると、俺はきっと帆波を睨みつけ、
「お前……何企んでる?」
脅すように低い声で訊ねると、じっと横目で盗み見るように俺の様子を伺っていた帆波は「は!?」と弾かれたように振り返った。
「た……企んでるって……何よ!?」
戸惑うようなその表情も、白々しく見えてくる。
つい、鼻で笑っていた。
「今度は数学か? 物理か?」
「な……なんの話をしてんのよ?」
「とぼけんな。何か魂胆があるのは分かってんだよ。どうせ、また俺に課題をやらせる気だな。ちょっと手伝って、とか言いながら、全部やらせる気だろ」
「は……はあ!?」といつもみたいに甲高い声を響かせて、帆波はがばっと立ち上がった。「何よ、それ!? いつの話、してんのよ!?」
「先週だ」
きっぱり言うと――当然、思い当たる節があったのだろう――帆波は開きかけた口を咄嗟に閉じ、気まずそうについと視線を逸らした。言い負かした……ようにも見えるが、当然、これで大人しく退く帆波ではない。すぐに、ふん、と偉そうに鼻を鳴らすと、ハンペンマンを片手に腕を組み、
「確かに、手伝って、て頼んだけど……別に、全部やれ、なんて一言も言ってないわよ。頼んでも無いのに、あんたが勝手に全部終わらせたんでしょ! それで文句なんて言われたくないわ」
「勝手に、て……」
いったいどれほど溜めてきたのか、膨大な練習問題を前に、今にも泣きそうな顔で『終わらない』って隣で漏らされたら、全部やっちゃうだろ!?
「お前……ほんと、そういうとこだぞ!」と俺も立ち上がっていた。「さっきのヘンタイマンの時といい……いつも、そうやって人の厚意を踏みにじりやがって!」
すると、帆波はがらりと表情を変え、きっと勢いよく俺を睨みつけてきた。
「人の『こうい』を踏みにじってるのはそっちでしょ!?」
「な……なんの話だ!? 厚意と呼べるようなことを、お前が俺にしたことがあんのか!?」
「あんたが鈍感で気づいてないだけよ、バカ!」
「バ……バカ!?」
「ほんっと、信じらんない!」吐き捨てるように言って、帆波は再びハンペンマンを抱きしめた。「このハンペンマンは私がもらうから!」
「なんで、そうなる!?」
「慰謝料よ!」
「慰謝料……ってなんのだ!? ハンペンマンは関係ねぇだろ!」
って、いや……待て。
別に、ハンペンマンはもらってくれていいだろ。さっきは、つい、帆波の態度に(いつものことながら)頭に来て、そんな奴には施しはやらん、という意味で、『返せ』と言っただけで……。もらってくれるとウチとしてもありがたいくらいだ。
てか――なんで、ハンペンマンを巡る争いみたいになってんの?
ふと、我に返ったそのときだった。
「まあ……そのハンペンマン、俺のなんだけどね」
ふわっとなんとも呑気な声が流れ込んできた。
その瞬間、ハッとして――それまで、不機嫌一色だった帆波の顔が、たちまち、淡い桃色へと色づく。肩を怒らせ、ハンペンマンを力一杯抱きしめていたその体からするりと力が抜け、その表情はしおらしいものへと変わった。まるで、別人みたいに。さっきまでの可愛げのない小憎たらしいじゃじゃ馬が、一瞬にして、恥じらう乙女に早変わりだ。
その変化は一目瞭然で。
いつも、こうして見せつけられる。
ほんと、バカだったよな。
幸祈と一緒に居たい――なんて一言に、子供みたいに舞い上がって。そこに裏がないわけないのに。
帆波がウチに来るのは、もう俺に会うためじゃなくて。リビングで俺と過ごす時間は、今の帆波にとってはなんの意味もないもので。きっと、『暇つぶし』くらいのもんでしかないんだろう。
ただ、純粋に『一緒に居たい』と帆波が思うのは、もう俺じゃないんだから……。
未練がましく体に残っていた熱を追い出すように深く息を吐き出し、俺はゆっくりと、声のした方を――リビングの扉へと振り返った。
「おかえり、兄貴」
出てきた声は、なんとも気の抜けたものだった。
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