第9話 好意の証【上】
そう……なんだ。いやらしいこと、考えちゃったんだ。幸祈が――私で。
ふふ、て溢れてしまう笑みはどうしようもなくて。口許を隠すように鼻までハンペンマンに顔を埋めて、幸祈を見つめた。
「ヘンタイマンはヘンタイマンよ」
歌うように言うと、「お前は……そういうとこだぞ!」と必死な形相でよく分からないことを叫んで、幸祈はばっと手を伸ばしてきた。
「もう、それ返せ! お前はやっぱり一人で寝ろ!」
『それ』って……ハンペンマン?
ハッとして、私はさらにきつくハンペンマンを抱きしめ、幸祈から遠ざけるように上半身を捻った。
「嫌よ!」
「嫌よ、じゃねぇよ。返せ! お前にハンペンマンはふさわしくない!」
「はあ!? どういう意味よ、それ!? ヘンタイマンに言われたくないんだけど!」
「だから……ヘンタイマンって言うな!」
「返して欲しかったら……」ふいに思いつき、じとりと試すような視線を向ける。「力づくで奪ってみなさいよ」
「は……」
轟々と立ち上っていた怒りの炎が、その身から一瞬にして消え去るのが目に見えるようだった。ふっと勢いを失くし、幸祈ははたりとして固まった。何か言いたそうに表情を強張らせながらも押し黙り、やがて、ため息交じりに視線を逸らす。そうして、返せ――と伸ばした手も引っ込めて、「もういい」と吐き捨てるように呟いた。
やっぱり、来ない。
相変わらず、幸祈は踏み込んでこない。
昔は、リモコンの奪い合いも、おもちゃの取り合いもしてた(って、おばちゃんから聞いた)。物心ついてからは、そういう取っ組み合い……みたいなものは流石に無かったけど、それでも、肩を寄せ合ってテレビ見たり、お絵かきしたり、うちの両親の帰りを待つときは、幸祈はすぐ傍で――たまに私の手を握って――添い寝してくれてた。
もっと、幸祈は近くにいたんだ。
それが、段々と遠ざかって、気付いたときには、幸祈はパーソナルスペースから私を追い出していた。
私たちの間に、見えない『誰か』がもう一人いるような。そんな距離が開いた。
幸祈を好きだって自覚してからは、その『誰か』が邪魔で仕方なくて。じれったくて。苛立った。
なんでだろう、て思ってた。
なんで、幸祈は近づいて来ないんだろう、て寂しかった。
いつも、私に告ってくる人は、あからさまなほどに距離を詰めてきたから。それが『好意』の表れなんだろう、て思ってた。私だって、そうだから。幸祈に近づきたい、ていつも思うから。好きな人には、近づきたい、て思うものだろう、て思い込んでた。
だから、幸祈のこれは、『無関心』の表れなのかもしれない、て思ってた。私に興味が無くて……なんとも思ってないから、近づいてこないのかな、て。
でも、違う……?
いやらしいこと考えた……って、少なくとも、私のことを、女として――そういう対象として見てる、てことだよね? 興味ある、てことだよね?
じゃあ、もしかして、これは『無関心』じゃなくて……『遠慮』? 意識してる証? 近づかないんじゃなくて。私を女として見るようになったから、近づけなくなった?
楽観的……かな。都合よく考えすぎかな。――けど、信じたいな。望みがある、て思いたい。
確かめてみたい――。
トクントクン、て静かに。でも、徐々に速く。不安げに。急かすように。一つずつ、鼓動を打ち鳴らしながら、胸の奥で心臓が熱を帯びていく。
「あの……さ。私も、一つ言っておくけど……」平静を装って、震えてしまいそうな声を必死に張って、私はいつも以上につっけんどんに切り出していた。「『一緒に寝たい』って……言い間違えただけだから」
「言い間違えた……?」
「本当は……」
どうしよう。
苦しい。息を吸っても吸っても、肺が膨らむ気がしない。不安と期待に胸が押しつぶされるよう。
そんな私を訝しげに見つめ、幸祈は続きを促すような眼差しを向けてくる。たまらず、私は視線を逸らし、ハンペンマンを見下ろしていた。
ハイライトも無く、黒ゴマみたいな円らな目が私を見上げている。へらっと笑ったその顔に、少し緊張が和らいだ気がした。条件反射……みたいに。子供の頃の気持ちが蘇ってきて、不思議と、勇気が湧いてくる。
もう一回……だ。今度は……今度こそ、ちゃんと伝えよう。
怖いけど。逃げ出したくなるけど。いつもみたいに、憎まれ口叩いて、はぐらかしたくなるけど。
踏み込んでみたい。幸祈の意識の中に、もっと入り込んでみたい。そのためには、少しずつでいいから、私から近づいていかなきゃ……ダメなんだよね。
無理やり肺に詰め込むように、すうっと息を吸い込み、
「本当は……幸祈と一緒に居たい、て言おうとしたの」
自分でも驚くほど、落ち着いた声でそうはっきりと告げていた。
緊張感と達成感が入り混じったような……爆発しそうな高揚感が胸の中で一気に膨らむ。今にも叫び出したいのをぐっと堪え、ちらりと横目で幸祈の様子を伺うと――。
さっきとは違って、怒鳴りつけてくることもなく。幸祈は目を丸くして、茫然としていた。窓から差し込む夕陽に照らされ、淡く橙色に色づいていたその顔は、じわじわと鮮やかな赤へと染まっていって。何度も目をぱちくりと瞬かせて、「は……え……?」て落ち着かない様子で鼻を擦る――そんな幸祈の仕草は、見慣れないもので。そして……鼻を擦るその手の影で、かすかに口許が緩んだのが分かって。
あ……って、思った。
幸祈、ニヤけた。
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