第2話 寝たふり【下】

 学校から帰り、玄関のドアを開けると、そこには見慣れたサンダルがあった。

 またか――と思うと、複雑な感情が胸の奥で渦巻く。嬉しい……のと、悔しいのがごっちゃになったような。ぐわっと込み上げてくる高揚感に遅れて、虚しいほどの遣る瀬無さに襲われる。

 いつも、そうだった。


 隣の家に住む坂北さかきた帆波ほなみは、俺の幼馴染だ。

 物心ついたときから、ずっと一緒だった。帆波の両親はずっと共働きで、帰りも夜遅く、小学生の頃なんかは、帆波と二人で学校からまっすぐウチに帰ってきて、よく一緒に夕飯を食べたりもしていた。すっかり、家族の一員で。『何かあったときのために』とウチの親は、帆波に合鍵まで渡していた。

 とはいえ、中学生になり、お互い、思春期というものに突入すると――部活で忙しくなったこともあり――帆波がウチに来る頻度は減った。高校生になったら、もっと減るのだろう、と思っていた。高校は別々だし、顔を見る機会も無くなって、このまま疎遠になっていくのかもしれない、と覚悟もしていた。


 それなのに――。


 リビングに入り、姿を見つけ、重い溜息が溢れた。

 相変わらずのゆるっとしたTシャツに、ショートパンツ。部屋着全開のだらしない格好で、ソファで寝転けている奴が一人。

 帆波だ。

 仰向けになって、顔だけ横に倒し、ぐっすりと熟睡している。重なりあった長い睫毛。わずかに開いた薄桃色の唇。静まり返った部屋に微かに響く寝息は実に穏やかで、それに合わせて、ふっくらとした胸元がゆっくりと上下に動いている。

 傍らにある窓からは夕陽が差し込み、朱色を帯びた光の中で、安らかに眠るその様は芸術的にも思えて。まるで絵画でも見ている気分になる。

 白雪姫みたいな……なんて陳腐な例えがよぎって、自分で恥ずかしくなった。

 別に帆波に見られているわけでもないのに。かあっと熱くなった顔を隠すようにそっぽを向いた。


 アホか。

 分かってるだろうに。

 どんなに寝顔が可愛かろうと。他の男がいくら騙されようと。俺だけは知っている。こいつは白雪姫どころか、もはや、毒林檎みたいな存在だということを。

 

   *   *   *


 とりあえず、二階の自分の部屋に行って、ベッドから毛布を抜き取り、リビングに戻った。

 そして、ソファの前に行き、愕然とする。

 おい――と怒鳴りつけたくなった。

 何をどうしてそうなったのかは分からないが……寝ている帆波のTシャツがめくれあがって、ほっそりとした腹が露わになっていたのだ。雪のように白く滑らかな肌に、緩やかなカーブを描くくびれ。つい、ごくりと生唾を飲み込む。

 どうしようもなく、掻き立てられるものがあって。触れたい、と思ってしまうから。

 そういうとき、自分の気持ちに気づかされる。もう、俺は帆波のことをただの幼馴染としては見ていないのだ、と。


 そして、うんざりする――。


 ああ、くそ……と心の中で悪態づいて、帆波のTシャツへと手を伸ばした。鳩尾の辺りまでめくれ上がったそれを掴んで、そっと引っ張り下ろす。これでもかというほど裾を伸ばして腹をきっちり隠し、持ってきた毛布をかけた。

 首まで毛布で覆ってやると、帆波は「ん……」と身じろぎし、気持ち良さそうにふんわりと笑んだ――ように見えた。

 諦めたように、苦笑が漏れる。


「腹出して寝てんじゃねぇよ。無防備か」

 

 人の気も知らないで――と苛立ちを覚えながらも、帆波の寝顔に見入っている自分がいた。


 結局、高校生になってからも、帆波はこうしてウチに上がり込んでいた。その頻度は減るどころか、中学のときより上がったくらいで。学校から帰ってくると、だいたい、いつも、帆波がリビングで我が物顔でくつろいでいた。

 戸惑いつつも、最初の頃は浮かれた。素直に嬉しかった。てっきり、俺に会いに来ている、と思ったから。でも、それを悟られたくなくて、あるとき、照れ隠しのつもりで言ったんだ。――お前、また、来てんのかよ、て。

 そしたら、帆波は『はあ?』と不機嫌そうにムッとし、顔を赤らめて言った。


『別に、あんたに関係ないでしょ。私はただ、あんたのお兄さんに会いに来てるだけなんだから!』


 ああ……思い出しただけでも胃が痛くなってくる。

 まさか、兄貴目当てだとは思ってもいなかったから。ノーガードのところを思いっきりボディブロー食らったみたいな気分だった。

 それからというもの、口癖のように帆波は『お兄さんに会いに来ただけだから』と言ってくるようになり、嫌でも悟った。帆波は兄貴が好きなんだ、と。

 それにしても、だ。言い方ってものがあるだろう。なんで、いつも喧嘩腰なんだよ。ほんと、憎たらしい奴だ。可愛げもありゃしない。

 なのに、なんでだろうな。


 諦めきれない。


 こうして、寝顔をいつまでも見ていたい、と思ってしまう。その髪に触れたい、と思う。頰を撫でたくなる。そんな欲求が胸の奥からどっと押し寄せてきて、息が詰まる。

 いっそのこと――と冷笑混じりにため息が漏れる。いっそのこと、さっさと兄貴に告って、付き合えよ。そしたら、俺もきっと吹っ切れる。こんな宙ぶらりんの気持ちを抱えたまま、傍にいなくてもいい。こんなに苦しい思いをしなくていいはずで……。


「帆波」ぐっと拳を握りしめ、気づけば、呟いていた。「いつまで、俺は我慢すればいいんだ?」


 その瞬間、「我慢……?」とぱちりと帆波の目が開いた。

 何が起きたのか、すぐには分からなかった。

 ただ、目の前に、帆波の透き通るような瞳があって。不思議そうに帆波が俺を見つめていて。

 かあっと全身が焼けるように熱くなった。


「おま……」とのけぞるように身を引き、俺は素っ頓狂な声を上げていた。「お前、起きてたのか!?」

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