第29話 真心のノート
そのとき、前のドアが開いて、小泉朝子先生が
「みなさん、おはよう。朝からいったいなんの騒ぎ? 今日は藍子さんが久しぶりに登校できた、まことにおめでたい日よ。もう少し静かにできないの? それともなに、ずいぶんと荒っぽく見えるけど、みなさんなりに歓迎しているつもり?」
朝子先生はそう言いながら黒板の前に立つと、白いチョークを手に取り、すらりとした背中を向けて、コツコツ小気味のいい音を立てながら、大きな字を書いた。
――藍子さん、全快おめでとう!!🎊
ピンクと水色と若草色のチョークで、華やかな花模様まで描いてくれた先生は、黒板のスペースに静かにチョークを置くと、くるりと向き直って話し始めた。
「藍子さんは事故でけがをして入院し、そのあともおうちで静養していましたが、今日からまたみなさんと一緒に勉強することになりました。でも、人間の身体は、けがをしたところが完治するのに1年以上はかかると言われています。元気そうに見えても、そうではないのですから、みなさん、いたわってあげてくださいね」
教室はし~んと静まり返った。
先生に反発する、いやな空気。
「はい、先生、いいですか?」
手を挙げたのは麗羅だった。
「でも先生、藍子さんは本当はもっと早く治っていたのではありませんか? 川原で犬と遊んでいるところを見かけたって、わたしのおかあさんが言っていました。けがが治っているのに学校へ出て来ないなんて、ずる休みではないんですか?」
朝子先生のお洒落な縁なしメガネが、窓からの光にきらりと反射する。
「いいですか、麗羅さん。人の心身のことは、ほかの人にはわからないんですよ、ええ、絶対にね。藍子さんはお医者さまからの許可が出るのを待って登校した……ただそれだけのこと。素人の目にどう映ろうと、いっさい関係ありませんからね」
ほんの少しの間を置いて、朝子先生はつづける。
「朝の読書活動の『星の王子さま』にもあったでしょう? 本当に大切なものは目に見えないんだよ、目に見えないものにこそ大切なものが隠されているんだって」
拗ねているのだろう、麗羅はなにも発言しない。
「ですからね、いいですか、みなさん。真実など知るよしもない周囲の人たちが、無責任なうわさで人を傷つけることなど、決してあってはならないんですよ」
そこまで一気に話すと、朝子先生はいつものやさしい口調にもどって言った。
「春花さん。藍子さんがお休みしているあいだ、全部の授業のノートを取っていてくれたわね。それをいま、藍子さんに渡してあげて。さあ、恥ずかしがらないで」
おずおず席を立った春花は、1冊のノートを胸に抱えて藍子の席にやって来た。
うながされ開けてみると、そこには几帳面な文字でびっしりと、算数、国語から理科、社会、音楽、家庭科に至るまで、全教科の問題や解説が書きこまれていた。
色鉛筆で表や図が描かれていたり、フキダシ付きでポイントが示されていたり、見やすいよう心のこもった工夫がほどこされていることが、ひと目で見て取れる。
「藍子さん。春花さんはね、藍子さんが学校へ出て来たとき困らないようにって、どの授業のときも一所懸命にノートを取ってくれていたのよ、自分の分と合わせて2冊分のね。みなさん、本当のお友だちって、なんてすてきなんでしょうね」
朝子先生の説明を聞いた藍子の身体は、感激のあまり小刻みにふるえ出した。
うしろから見ていたいじめっ子たちは、やっぱり泣き虫藍子が復活したと思ったかもしれない。だが、伏せていた顔を上げた藍子の頬には、一滴の滴もなかった。
「春花ちゃん、本当にありがとう。いままで素直になれなくてごめんね。やっぱり春花はわたしのたいせつな一番の親友だよ。このノート、一生の宝ものにするね」
たったひとりの親友を見つめる藍子の目は、きらきらと強い光を放っていた。
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