第26話 弟のひみつ
来客があったりして水分を採りすぎたせいか、珍しく夜中に目が覚めた。
トイレに行こうと階段を降りて行く途中で、藍子はぎくっと足を止めた。
明かりが洩れるリビングから、とうさんとかあさんのひそひそ声がする。
「藍子を産んだとき、産婦人科の先生に、もう子どもは諦めてくださいと言われたときはさすがにショックだったわ。そのせいで、おっぱいが止まっちゃって……」
「そうだったなあ……あのときのかあさん、辛そうで見ていられなかったよ」
藍子は自分の耳を疑った。
「里親登録をしておいた乳児院から連絡が来たのは、藍子が3歳のときだったわ。いまだから言うけど、とうさんに相談したとき、本当はわたしもう決めていたの」
「ははは。そうじゃないかと思っていたよ。かあさん、そんな顔をしていたから」
全身からさあっと音を立てて血が引いて行く。
わたしじゃなくて、慎司が養子だったなんて。
いま、自分の耳で聞いたことが信じられない。
でも、あらためて考え直して見れば、思い当たることばかりだった。
――そうか、そうだったんだ! だから、とうさんもかあさんもわたしより弟を大事にしたんだ。なのに、わたしったら慎司に嫉妬して、ひどいことばかり……。
とうさんとかあさんの話はまだつづいている。
「慎司ばかりではなく、蘭子おばあちゃんもまた、雪の朝、乳児院の玄関先に置き去りにされていたという事実を、藍子も慎司もやがて知るときが来るでしょうね」
藍子は驚きのあまり階段から落ちそうになった。
足もとからゾクゾクと寒気が這い上がって来る。
カーディガンを羽織ってくればよかったな……。
「今日、お線香をあげに来てくださったのは、おばあちゃんと同じ施設で育った方なんですって。大人になってからはお互いの家族を思って交流を控えていたんだけど、年に一度だけ会って積もる話をするのが、なにより楽しみだったんですって」
珈琲カップを机に置く音がする。
とうさんの声は聞こえなかった。
「言われてみればたしかに、母がお洒落をして浮き浮きと出かける日があったわ。せめて名前は華やかにと、蘭子と名づけてくださった施設長さんや、あんなにいいお友だちがたくさんいてくださったなんて、母の一生はとても幸せだったのね」
「おふくろさんほど人生を楽しんだ人はいないと思うな。なにしろ、わるいことはいいことに、いいことはもっといいことに変える魔法の持ち主だったからねえ」
――ああ、それで。
藍子はあらためて納得がいくような気がした。
テレビでモンゴルのマンホールチルドレンの報道を見ているとき、膝の拳を白くなるくらい握り締めていたこと。慎司を見る目がそれはそれはやさしかったこと。かあさんに乳児院のボランティアを勧めたのも蘭子おばあちゃんだったこと……。
かあさんがとうさんに、昼間の老婦人が語ってくれた言葉を伝えている。
――蘭子さんは何事にも前向きな考え方をされる方でした。
小学校で「施設の子」と言っていじめられたとき。家族と一緒で楽しそうな同級生をよそに、一室に集められてお仕着せの弁当を与えられた運動会のとき。そして中学を卒業して東京の薬問屋に奉公したときも、「いまは辛くても、この辛さがずっとつづくわけじゃない。きっといいことがあるから」と励ましてくれました。
――そんな蘭子さんだからこそ、あんなにすてきなご主人に巡り会えたのです。
板前さんだったご主人が亡くなられてからは、ご自身で調理師の免許を取って店を切り盛りされ、ひとり娘のあなたを育てながら、お世話になった地元への恩返しにとボランティア活動にも熱心で、どこまでもさわやかな生き方を貫かれました。こちらで男の子を引き取られたときも、蘭子さんの強い勧めがあったはずです。
藍子が自分の部屋へ引き上げてから、老婦人はそんな話をして行ったらしい。
あんなに明るくてオトコマエで、近所の人たちからも「蘭子さん、蘭子さん」と慕われていた蘭子おばあちゃんが、そんなに重い荷物を背負っていたなんて……。
そんなことも知らず、早く年を取りたいと甘えていた自分が恥ずかしかった。
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