第5話 前を向いて*
「団長、押されてます」
「民兵が狙われたか」
戦術的に弱い兵を後ろに控えさせるという事は、相手に容易に読まれていて、森に潜んでいた敵兵に脇から不意打ちされた形。
一度は驚いて押されたが、相手の人数が少なかったためすぐに気を取り直して対抗は出来ている。
前線は力比べのような乱戦だ。後方の民兵も前線も、どちらが崩れてもいけない。民兵の一部をあえて前に出して、前方の兵と合流させる事にする。
中央を厚くし、そこに敵兵を引きつけておいて余力が出来た主力の一部を切り離し、まわりこませて側面を付く形でしか現状打破の方法がない。
だが、民兵は思うようには動いてくれない。熱くなって前に進む者と、怯えて下がろうとする者でごった返す有様。
戦術は一番弱い兵を基準にして立てるべきだが、羊の群れの方がまだ御しやすい気がする。
一度、仕切り直すべきかもしれない。だがぞれを敗北とみられる可能性もある。それを理由にしてこちらが引けないと、相手は踏んでいるのかもしれない。指揮官である国王は愚鈍でも、その下の将軍たちは命がけだから知恵を絞ってくるだろう。初戦でなかなか厳しい戦いだ。挽回の手立てが欲しい。
ヘイグは考える。
「この辺りの地理に詳しい者を呼んでくれ」
ほどなくして国境の出身という男がやってきた。ヘイグはその男からいくつかの情報を聞き出すと
「この際、使える物は全部使おう」
以前カートに指摘された事を呟いてしまった事に気付き、ヘイグは苦笑した。
――そう、俺はこういうところがあるんだ。
人的被害も最小限にしなければならない。これからの国の防衛のためにも、貴重な人材を失う訳にはいかないのだ。
夕刻が近づく。そろそろ頃合いか。合図で一気に引けるように伝達してある。前線の時間稼ぎもそろそろ限界に近いところに、土煙が東から見えるという報告にヘイグは用意していた合図を指示する。
「全軍、後方への移動はじめ」
東から馬が駆けてくる。装備はラザフォード軍であるが、彼らは赤い布を広げ持つ。ドアナ国の兵が、その不思議な三十の騎兵に目を奪われる。
騎兵は前線に乱入し、手に持った赤い布をその場に投げ捨てた。
謎の行動に、それを目前にした兵は狼狽えたが、すぐに気を取り直す。
撤退する様子のラザフォード軍の後背をつくべく進軍をしようとしたが……。
次々と悲鳴と叫びが上がり、上空に多くの指と視線が向けられる。
「ワイバーンだ!!」
群れだった。その数二十。
巣を荒らした犯人を捜し、ワイバーンは戦場に殺到した。彼らの目に焼き付いていたのは赤い色である。赤い旗、赤い装備を主体とするドアナ国の兵に向かって、その殺意を向けた。
ラザフォード軍は鮮やかな撤退を見せており、ドアナ国王リドリー三世はそれが敵国の策略と知る。
「おのれ卑怯な!」
国王は陣地で叫ぶが、そもそも宣戦布告もなく国境を侵そうとしたのは自分達である。
「ワイバーン相手では、戦線が維持できません!」
「ぐぬぬ……」
ただでさえ海の民との戦いで疲弊している中、他国に攻め入ろうとして敗戦ともなれば、国王たる自分でさえも一体どうなるか。初めてこの王は、怒り猛る民衆の顔を想像した。だが、もうこの戦場は放棄以外の道はない。上空から襲い掛かる魔物相手に、成す術はないのだ。
「撤退……退却せよ!」
精霊なしでも侮れない。リドリー三世は手痛い教訓を叩きつけられて兵を引いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「カート……」
少年は、ベッドに静かに体を横たえたままだ。フィーネが哀し気に彼の手をさすりながら、包帯が幾重にも巻かれているその顔を見る。もしうっかり彼の目を見てしまえば、見た者は意思を喪失してしまうから、この瞳への対処がどうしても必要であった。
だからといって物理的に潰すなど、選択肢に入れたくはない。
アーノルドは気絶から目覚めた時に元に戻っていたが、それは命令をしていた解放者のダグラスが死んだからかもしれない。
解放者亡き今、意思を喪失した者がどうなるのか不明である。
「フィーネ……? いるの?」
「うん、いるよ。何か食べられる?」
「あまり食べたくないけど、食べないとだね」
カートが好きな、硬いパンを煮込んだシチュ―を作ってあった。だがそれも三口程度しか食べられず。
熱はすっかり下がっているのだけど。
フィーネはなぜかカートとの距離を感じている。どこかそっけなく対応されているようで……。
カートはフィーネの自分への好意が瞳のせいだと思えてしまい、罪悪感と不安で心が辛く痛んでいて、以前のようには彼女と付き合えなくなっていた。
今まで親しくしてくれた人達の事を思い出すたびに胸が苦しくて、食欲も減退したまま。食欲が戻らないから体力も戻らず、身体は衰弱からの回復を一向に見せない。
ベッドから体を起こすのがやっと、という状態でいる。
そこにピアが入って来た。
「まだ食べられないのか」
「なんだか、ずっとこんな感じ」
「フィーネ、少し席を外してくれるか?」
「……うん」
少女は空っぽになった水差しを持ち、中身を補充をするために部屋を出て行った。
それを確認すると、ピアは少年の首の後ろに手を入れて頭を少し上げさせ、カートの目を塞ぐべく巻かれた包帯を解く。
少年は包帯が取り払われても、その瞼を固く閉じていた。
「目を開けてもいいぞ」
「でも……」
その声はピア自身の声で、少女人形の声ではない。生身の彼を直接見てしまってもいいものか、カートは悩んだ。
再び促され、静かにその瞼を上げる。
「なるほど、美しい物だな」
少年が久々に見る、魔導士の金色の瞳。飄々としたいつもの表情。
「ピアさん、大丈夫なんですか?」
「どうやらその魔力はボクよりは弱いようだ。ボクの力でねじ伏せて、対抗はできる」
ピアはずっと、自分の立ち位置を決めつける魔力の多さが嫌だった。今はそれに感謝の気持ちがある。少年のその瞳は本当に美しかった。これを間近で、自らの目で見る事が出来るとは。
「僕、これからどうなりますか」
「ボクがなんとかしてやる」
「みんなが僕に優しかったのは、この瞳の力だったんでしょうか」
「それはないな」
気持ちいい程に断言した。
「ボクから見ておまえは、相当な人たらしだと思うぞ。その性格がな。見た目も瞳も全く関係ない。だいたい解放されるまでは、ボクですらそこに魔力を感じなかったんだ。影響があるはずがない」
言って欲しかった言葉。
彼ならきっと、言ってくれると思っていた。
――僕をまた、救ってくれるんですね。
カートのその瞳から涙がつたったのを見て、暖かな微笑みと共にピアは少年の頬に手を当てると、親指でその涙をぬぐい取った。
「そんな綺麗な瞳で泣かれると、ボクでもちょっと、ときめくな」
「えっ」
「カート」
少年の頬から手を離して姿勢を整えると咳払いをし、フィーネに席を外させた本来の目的の質問をする。
「おまえあいつに、何をされた? あーつまり、何処までやられた?」
「もう少し、
「他に表現のしようがないじゃないか」
「……されました」
「ん?」
消え入りそうな声で、毛布で顔を半分隠し、少年はもじもじとする。
「キスされました」
「それだけ?」
「それだけって、僕初めてだったんですよ!」
ピアは「ふうん?」という軽い返事をしながら、少年の顔を覆い隠す毛布に手をかけ、表情が見えるように下げさせると、その変化を観察する。
「その程度ならまあいっか、みたいな顔はやめてください」
「唇を奪われたぐらいでガタガタ言うな」
「えー……」
「まあ、身体は無事……で良かった」
という事は、少年の長く続く食欲不振は、意に沿わぬ行為の強要の結果ではないのだと、ピアは判断した。
「心に辛い事があったんだな」
少年は目を伏せる。
「僕が、望まれて生まれた子ではなかった事を知ったのは辛かったです」
ピアが少年の髪を撫でると、その優しい触れ方にカートは泣きだしそうな顔で金色の瞳を見つめる。
少年は、母も父も、エリザも、自分自身を愛してくれてはいなかったように思えて辛い事をピアに苦し気に吐露した。
それを聞いたピアは、何てこともなさそうに軽く返事をする。
「その話を聞く前は、愛されていると思ったのだろう。そっちが正解じゃないか?」
「え?」
「実際に会っているんだ。その時に感じた気持ちが真実だと言っている。状況的にそう思える、というのじゃなく、実際に体験したことから考えてみろ。おまえは愛されていたと思うぞ」
少年が驚いた顔をして彼を見たので、ピアも驚いた猫のような顔をする。驚くような事を言っただろうかと、言わんばかりに。
「ピアさんはどうして、僕が欲しい言葉をこんなにくれるんですか」
「少年がどんな言葉を欲しがってるかなんて知らないよ。ボクは思った事、感じた事を言ってるだけだ」
その言葉で少年の表情が明るくなった事に、ピアは 胸をなで下ろしたが、まだ何か足りない。そんな気がした。
悲しみが残ったその瞳を見るに、今度は父母の愛を疑ってしまった自分を責める気持ちが沸いているのかもしれない。
ダグラスの意図が、未だ色々な形で少年を縛っているようで。
「そうだ、キスされた記憶が上書きできるかどうかを試してみないか?」
「あ、はい」
カートは思考が追い付かないまま返事をしてしまったが、ピアはその返事を聞くやいなや少年に顔を寄せ、唇を重ねた。ダグラスにされたものとは違い、触れあうだけの軽い物。驚いて目を見開いてしまったが、すぐに瞼を閉じ、その実験を少年は受け入れた。
これは、
受けた傷が早く過去になるよう、新しい経験で押し流そうとしているピアの想いが伝わって来て。この優しさが、ずっと恋しかった。
ほんのわずかな時間を置いてその顔が離れると、ピアは好奇心に満ちた目で、その結果を期待している様子を見せる。
「どうだ、前の方は忘れたか?」
「男にキスされた記憶が、二つに増えただけです」
「くっ、失敗か」
少年はクスクスと軽い笑い声と共に、満面の笑顔で返す。
「研究熱心もいいですが、僕で試さないでください」
「むぅ」
「だけどキスの話題になったとき、真っ先に思い出すのはこの記憶になりそうですよ。本当に無茶苦茶しますよね」
その屈託のない笑顔は、連れ去られる前、家で過ごした日々の顔。
それを見てやっと、ピアは少年を取り戻せたと感じた。
カートは思う。こんなとんでもない事を、なんてことないといった風情でやらかすこの魔導士が
ピアが絶対に自分を傷つける事も、見捨てる事もないという実感が心を癒す。父親役をやりたがってる割には、やる事なす事ズレまくりではあるけれど。
彼が治癒の魔法を得意としているのは、彼自身が人の心を癒す力に長けているからかもしれない。
それにしても、何の抵抗もなく口づけるなんて、ショック療法にも程があるが。
だが、効果は抜群だったようだ。
「なんだか、お腹がすいてきました……」
少年はピアの手を借りて体を起こすと、少し冷めてしまったシチューの残りを全部食べ切って、戻って来たフィーネを驚かせた。
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