第2話 少年の、青*


 今のカートには昼も夜もなく、力尽きては意識を手放すように眠り、目覚めると心の苦しみに喘ぎ続けていた。

 もはや、ここに来て何日が経過したのかすらわからない。


 逃げ場のない今、いつ何をされるのか分からない方が精神的には重荷で、嫌な事を早めに終わらせて楽になりたいという気持ちが芽生えてしまう。カートはその考えがよぎる度に頭を振って追い出していたが、抗う元気は失われつつあった。


 ダグラスはあの日以降、更に少年に何かをしようとする様子を見せずにいたが、今日この日、扉を開けて入って来た男が、一歩進めるつもりになったという雰囲気をまとっていて、少年に恐怖心を抱かせる。

 

 カートはいつものようにベッドの端に腰掛けていたが、最初のように立ち上がり、距離を取ろうという仕草をしなくなっただけでも、ダグラスは満足である。


「瞳が濡れているじゃないか、また泣いていたのか」


 ダグラスは木製のカップに水を注ぎ入れると、少年に差し出す。


「今更、薬など盛りはしない」


 少年は恐々こわごわと受け取り、その水を飲んだ。それもまた距離が縮まったように思え、男が思わずフッと笑うと、少年はびくりとカップから口を離す。


「ただの水だ、恐れるな」


 少年の隣に座り、肩に手をかけ引き寄せる。カートはいつものように身を固くしたが、それを意に介さず、耳元で囁くようにダグラスは言葉を継いだ。


「カート君には薬を盛ったりはしない。だが他の邪魔者には、な」

「何を……したの……?」

「おまえの保護者は、死んだ」


 カップが手から滑り落ちた。木製のそれは、ゴトリと重い音を立てただけで、割れる事はない。


「え……?」


 青い瞳は見開かれ、ダグラスを見る。

 目が合って、男は嬉しそうに微笑んだ。


「仲間が仕込んだ紅茶を飲み干した」

「紅茶?」

「たっぷりと毒を注ぎ入れた、な」

「嘘だ、ピアさんが死ぬものか!」


 肩にかけられた手を振り払い、少年は勢いよく立ち上がる。


「天才魔導士だろうと、呼吸も心臓も止まった状態は、生きてるとは言えまい」


 くっくっくと、笑う男の声が耳障りだった。ダグラスの低い声がガンガンと頭の中で反響する。それはそのままひどい頭痛になり、少年は右手をこめかみに当て片目だけを細めた。

 もう、ダグラスの言葉なんて聞きたくない。だが、男は情け容赦なく言葉を続ける。


「仲間が、確実に死んでいた事を確認している。俺達は暗殺者アサシンだぞ、死をたがえるわけがなかろう」


 男も立ち上がり、少年の手を強く乱暴に引いた。そのままの勢いでベッドに押し倒す。


「いやだ、やめて……やめ……」

「もう君が頼れる相手は、俺だけだ。諦めろ」


 それでも拒絶しようとする少年と、肌が触れあって気づく。


――ん? 熱い……?


 慌てて少年の額に手を当てた。


「なんだ? 随分と熱が高いな」


 カートの、強いストレスを受け続けると熱が出てしまう体質が、今ここにきて出ていた。彼の精神は限界で、いつものように体の方が先に悲鳴を上げた。


 少年はここに来てから食事をろくに口にしていない。元々細身で体力がなさそうだし、以前も医務室でもひどい寝込み方をしていた事が思い出される。


――このまま衰弱死でもされたら、全てが台無しだ。


「くそ」


 男は体を起こすと部屋を出て行く。薬の準備、後は何でもいいから食べさせておかねばと考えたのだ。

 少年の欠点が彼自身を救うという、皮肉な出来事であった。


 だが実際、彼の心も体も限界で、強かった意志も今はか細く。


 そんなカートの目線の先。

 窓際に、白い小鳥が見えた。


 ピアの伝書の魔法の小鳥のようで、少年は微笑むと体を起こし、よろめきながらも窓に向かう。しかし足枷の鎖がめいいっぱい伸びて、少年は窓にたどり着く事なく転倒してしまった。

 転倒に驚いて、小鳥は飛んだ。


 それが本物の小鳥で、ピアの魔法ではなかった現実が少年の心を挫けさせる。


「ピアさん……」


 嘘であって欲しい。

 あんな奴の話なんて信じるものか。

 あのピアさんが、簡単に死んだりするものか。


 でも今は、自分が死にそう。


 熱を持った体に、床の冷たさが気持ちいい。

 このまま死んでしまった方がいいのではないかと思えて来る。こんな恐ろしい力の瞳を持っているのだ、ここで失わせてしまう方が世界のためのようで。


――あの男に、利用されるぐらいなら、いっそ。


 意識が遠のく。眠いようなそうでもないような、ふわりとした不思議な感覚。苦しくはなく、先程まで聞こえていた鳥のさえずりは、もう聞こえない。


――フィーネ……。


 ピアさんが死んだとしたら。

 僕も死んだとしたら。

 君はまた、一人ぼっちになってしまうのか。

 ごめんね、僕、帰れそうになくて。

 帰り方が、わからないんだ。

 せめて君だけでも、幸せになってくれたら。



  少年の意識は世界の底、無音の暗闇に沈んでいった。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





 ピアが目を開けた。

 覗き込むのは金色の瞳と、色がわからない程の細い目。


「起きたっぽい」

「魔導士閣下、お加減は?」

「すこぶる悪い」

「兄様って、ほんと天才だと思う」

「そうだろう」


 体を起こそうとしたが、それはまだ無理だった。

 あちこちの感覚がなく、麻痺が残っている感じだ。


 ピアは毒を飲んでしまった事に気付き、即刻意識を少女人形に移した。人形に意識を移している間本体は仮死状態になる。呼吸もせず、心臓も止まり、身体の時間が完全に止まった形だ。

 完全に死ぬ前にその状態にして、対処法を待つという方法を彼は取っていた。

 

「陛下に使われたのと同じ毒で良かったです」


 アーノルドがほっと息を吐く。彼の手元には、かつてカートと共に訪れた薬屋で手に入れた解毒剤の空き瓶があった。完全に飲んだ場合の分量がわからなかったので、ひと瓶全部を口にねじ込んだ。


「アーノルド、おまえ怪我は大丈夫なのか」

「かすり傷だったので」


 大した怪我ではなかったが、全く動けなくなり、そのせいでカートが攫われる事になってしまった事に、彼はひどく罪悪感を持っている。もっと剣技があれば。もっと鍛えておけばと。

 カートが帰ってきたら、もっと鍛錬を一緒にするのだと、その拳には力が入る。


――次、同じ事があったら、俺があいつを守ってやる。


 一緒にやれば、カートのスキルも上がるのだが、アーノルドはそこに考えが及ばない。苦しい鍛錬こそ、彼とやりたいから、一緒にやるという所は外せないのだ。


「カートの居場所はまだわからないのだろうか」

「あの医者、どこに消えたのか皆目わからずで。閣下に薬を盛った仲間はなんとか捕らえたものの、どうやら知らされていないようです」


 とりあえず、あの医者の目的はカートの瞳の力であろう。聞けばあの男、美少年を愛でる趣味があるという事から、カートの身が危ぶまれる。あの極端な恥ずかしがり屋は、潔癖症の証でもあるから。


 もし何かされでもしたら、少年の心は耐えられるだろうかと。

 強いストレスを受けると発熱するという、身体の弱さも心配だ。


 感情を出すようになってからは精神的にも脆さが見え、耐えられる閾値が随分下がっていた。心が弱くなっても、自分がそばにいて支えてやるから問題ないと思っていたが、このように引き離されては。


――無事でいてくれればいいが……。


「兄様、あたし母様に会って来る」

「母さんに? 何故」

「母様は占い師でしょ? カートの居場所、占えないかなって」


 心を壊している母に、何ができるだろうかとは思う。

 フィーネがまた、傷つけられる心配もある。


 だが今はどんな可能性にも縋りたい。


「頼む」


 兄に頼られて、少女は力強くうなずいた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ダグラスがトレイにいろいろと雑多な物を乗せて部屋に戻った時、カートは床に突っ伏して倒れていた。トレイを机の上に投げ置くと、慌てて少年を抱き起す。


 まさか死んだのではないかと思ってしまったが、少年は意識を失ってはいたが、かすかに呼吸が確認出来て、ほっと息をつく。


 抱き上げると、ここに来た日に比べて明らかに軽い。

 その体は焼け付くようで、かなりの高熱。

 呼吸は浅く、か細く、額にはうっすらと脂汗。状態が相当悪い事に、普段は冷静なダグラスも焦る。


 ベッドに慎重に横たえ、軽く頭を上げさせて熱さましの薬を飲ませると、続けてハチミツを溶けこませたミルクを口元に運ぶ。身体の反射だろうか、素直に飲んでくれた事に男は安堵した。

 唇に僅かに残るミルクの白い筋を、男は自分の袖で拭きとってやる。


 高熱に苦しむ姿を目の当たりにして、ダグラスの胸に僅かに痛みが生じていた。


「なんだ、この気持ちは……」

 

 これまでは、嫌がる少年の姿を見ると愉悦すら感じたのに、このように苦しむ姿を見るのは楽しくない。失いそうで不安、というのとも違う。

 ふと、これが可哀相な事をしてしまったという後悔であることに気付き、慌てて頭を振る。


「俺が、罪悪感だと?」


 医師としての微かな矜持だろうか。

 医師になろうと決意したときの理由を思い出したせいか。


 自らの感情の葛藤が制御できず狼狽していたダグラスだが、その時、少年の瞼が一瞬上がり、瞳が見えた。


 色は、青。



 そらの青。



 深く透明で、神秘的。何もかもを吸い込む宇宙の境界のような天空の色。精霊ですらこのような瞳は持っていないのではないかと思えた。存在を知っていたダグラスですら息を飲む。

 魔法を屈折させて防ぐ眼鏡越しでなければ、一瞬で心をもっていかれた気がして、ゾッとした。

 再び少年は、力尽きたように目を閉じる。


「なんて瞳だ……手に入れたのか、俺は」


 こうなれば、何が何でも少年の体を回復させなければならない。


「失ってたまるものか」


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