第3話 踏み出す一歩
少女は乗馬を習った事はない。
馬に乗る時はいつもカートが一緒だった。今日は一人。
彼の愛馬は、カート以外に対しては結構な荒れ馬だという。
だが彼女は、目的地までの相棒としてカルディアを選んだ。
「カルディアお願い、あたしを乗せて」
馬は少し考える素振りを見せたが、バッカスの鞍の準備に素直に従う。そして一人で馬に乗った事のない彼女は、バッカスの手を借りて辛うじて馬に乗る事が出来た。いつものスカートでは乗れないから、カートの服を借りている。
少女は北に向けて馬を駆る。母の行った高原の療養所へ。馬を走らせれば半日の距離。
カルディアは不慣れな少女を乗せて最初は走りにくそうだったが、彼女がコツを掴むのに合わせて速度を上げる。
風のように、馬は街道を行く。
母は何も出来ないかもしれない。
――それでも今は。
馬は休みなく走り続ける。それがカートのためだという事が、まるでわかっているかのよう。カルディアもまた、カートの友なのだ。
この黒馬は優秀な足を持っているから、高原の療養所には予定よりも早くたどり着いた。
だが。
馬を降りた肝心のフィーネの足が、そこで止まる。
遠目には牧場のように見えた二階建ての白い壁の建物は、近くで見ると療養所というより洗練された貴族の別荘のよう。
――母様は、あたしの事がわからないかもしれない。
見送るその日に、一瞥すらしてくれなかった事を思い出す。
愛される事を知ってしまうと、拒絶される事が恐ろしいのだ。今までは求めても与えられないのが当然になっていたから、拒否されても無視されても耐えてこられた。
だけど、カートが。
そしてピアが。
求めただけの愛を返してくれて。
少女は愛される悦びを知ったと同時に、それを失う事への恐怖も芽生えたのだ。
――それでも!
少女は勇気の一歩を踏み出す。
今、自分がそんなカートのために出来る唯一の事。
彼の居所のヒントを得る、わずかな可能性に賭ける。
職員に声をかけカルディアを預かってもらい、母の元に案内してもらう。身元確認はなかった。
――あたし、母様そっくりだもんね……。
この療養所は随分と高級なところで、ピアが厳選した場所。職員の雰囲気も良く、部屋のしつらえも良かった。ここなら母の心も、少しは癒えているのではという期待が膨らむ。
職員が促すように差し出した手の先を見ると、バルコニーに椅子を出し、ひざ掛けをかけた女性。
自分と同じ、黒い髪。
「母様……」
母は振り返らなかった。
――やっぱり……。
でも彼女も被害者だ。愛し合って結ばれたというのに、子供が望む能力を持っていないという、それだけで責められて。心が壊れる程に責められて。そんな彼女を誰も救う事が出来なかった。
そして自分も、母の心の
もし自分が魔力豊富に生まれていればと思う。
母の望んだように産まれる事が出来たなら。
でもそんな事、出来るはずもなく。
生まれた自分そのものを、見てもらうしかないのだ。
そして成長した今を、見て欲しい……!
「母様、フィーネのお話を聞いて?」
小さな子供のように、甘える口調になってしまった。
少女は母の元に歩みより、しゃがみ込むと母の膝の上に頭を乗せた。母の顔を見る事は出来なかったが、話しかけ続ける。
「あのね、フィーネ、好きな男の子が出来たの」
顔をその膝に
「彼の事がすごく大好き。だから兄様とじゃなく、いつか彼のお嫁さんになれたらって思ってるの。許してくれる?」
母は何も答えない。
「でもね、その男の子が連れていかれちゃったの。何処に連れて行かれちゃったか、わからないの。でも助けないと大変な事になる、あたしのところに、二度と戻って来てくれなくなっちゃうの」
フィーネの声が涙声になる。
「助けて母様、助けて。フィーネの我儘を聞いて、お願い、この一度だけでいいから」
ぎゅっとそのひざ掛けを握り、涙はそれを濡らし始める。
何も答えない母に、やっぱり、という気持ち。
意外と傷つかないものだなと思った。どこかでやはり諦めてしまっていたのだと。覚悟はきちんとできていたのだと思う。
母が少し動いた。
彼女は卓上の水の入ったグラスを指す。
「喉が渇いたの?」
家にいた時のように、フィーネは母親の世話をやく。卓上のグラスを手に取ると、母にそれを握らせた。
彼女は、フィーネを見て微笑んだ。
金色の瞳は、夜明け前の月の色。
彼女は静かに、グラスの縁を指でなぞる。一周回ったとき、水面に変化が生まれた。水の波紋が広がる。
その波紋はまるで、広がる星の欠片のように太陽の光に煌めいた。
「北。塔。……廃墟に一度、なった場所」
彼女はその煌めきの中に、星を読み取った。
「母様……!」
彼女はフィーネをまっすぐに見つめる。そして静かにグラスを卓上に戻すと、手を広げて見せた。
フィーネは思わずそこに飛び込んだ。
「母様! 母様ぁ」
「……」
母親の脳裏に、かつて見た星が綴る不幸な運命の中に、一つの星が流れていたことを思い出す。その時は気にも留めなかったあの星は、もしや。
自分の犯した罪の子を、まっすぐ見る事が出来なかった。この手で愛してあげられなかった。
この苦しみは、自ら招いたものだと、今ならわかる。
これからでも贖罪は間に合うだろうか。
――迷ってはいけない、気づいたその時からはじめなければ。
今ですら十分、遅いのだから。
少女がぐすぐすと鼻をすすりながら、涙でグシャグシャの顔をあげると、母は微笑んでいた。
「恋をしたのね、フィーネ」
「うん」
優しくその黒髪を撫でる。
「あなたの大好きな男の子の居場所を知らせなさい」
「あ、うん!」
フィーネはぱっと顔を上げると、空に向けて詠唱をはじめる。青い空は彼の色だ。想いを籠める。
彼女の少ない魔力で唯一使える、兄から教わったばかりの魔法。
伝書の魔法。
カートもお気に入りの、手紙を運ぶ小さな魔法の小鳥。
小鳥はメモを持って、兄の元へと飛び立った。
少女はそれを見送る。
後はもう、ピアと騎士団にゆだねるしかない。待つ事しかできない自分の非力さが切ない。もっと魔法が使えれば。もっとたくさんの知識があれば。
でもきっと、今からでも遅くはない。
いつかまた同じような苦難が訪れた時に、あの時にやっておけばと後悔しないよう、今からはじめるのだ。魔法は使えなくても、知識は積み上げられる。努力次第でいくらでも。
空を見つめ続ける少女を、その母親は見守った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「北にある塔。一度廃墟になった場所?」
未だ体を起こせないピアの枕元で、ヘイグは考える。
「白い塔か……!」
「塔は確か、再建の途中だったな」
「ああ、だいたいの工事が終わって、来月からは内装の細かい工事を追加する手はずだったが。今は丁度、作業の交代時期で誰もいない」
「行くしかあるまい」
「すぐに部隊を編成する」
「ヘイグ、おまえは南に行け」
「南?」
「あのバカ国王の事だ、たぶんそろそろ国境を越えて来るぞ」
「戦争をしようというのか?」
「舐められてるのさ、この国に戦う能力がないとね」
「カートはどうするんだ」
「ボクが迎えにいくさ」
「その体で!?」
「人形で行く。そうだな、アーノルド達は貸せ」
「……わかった……」
ドアナで出兵の準備を整えているという情報は、兼ねてより得てはいたが、まさか矛先がこちらを向くとは。
随分と舐められたものだ。この国に手を出せば痛い目に合うという事は、この際、徹底的に叩き込んでおかねばなるまい。
ゆくゆく精霊が失われるという事は周辺国に知れ渡る。そうなれば、彼らの考える脅威がなくなるのだ。豊かな大地と鉱山は随分と魅力的であろう。
だがこの国にも、有事に対応するための軍編成のシステムがある。毎年一度、祭りのようなものではあったが、招集訓練、軍事訓練は行われ続けていた。
これを機会として、この国には迂闊に手を出せないという事は、知らしめる必要がある。
庶民であったカートが騎士に叙任されてからは、ずっと兵の士気は高い。他の騎士団員も少年騎士に負けてなる物かと、随分と鍛錬と勉強をし続けた一年だった。庶民出身の一般兵と、貴族出身の騎士団員との関係も良くなっている。すべてあの少年の功績と言っても良かった。たった一人の存在で、大きく変化したのだ。
だから絶対に、カートは救い出さなければならない。
この太々しい親友に彼を任せて、ヘイグは騎士団長としての自分の仕事をする決意をした。有事には騎士団員は部隊の指揮官、騎士団長は国の軍隊の最高責任者である。
奇しくも、宰相選挙の存在が、軍の編成に大きく貢献した。
自分達の考えで、国を動かす事になる事に人々は不安をもっていたが、同時に楽しみを持っていた。それは愛国心に繋がっており、招集にあっという間に多くの民兵が集まった。これから面白くなりそうなのに、他国に邪魔されてはたまらないといった所か。
多少の訓練を受けただけで、全く実戦経験がない部分は、用兵で上手くやるしかない。
とりあえず、人数である。
数を見せ付けるのだ。
それだけでも随分と示威になる。
いざとなれば、この国ではここまでの人数を集める事が出来るのだと。
糧食も、災害に備えての備蓄が多くある。これからは、きちんと別に用意すべきだが、今はこれを活用していく。
出兵を前に、ヘイグがグリエルマの元に行くと、彼女はぎゅっと夫を抱きしめた。
「必ず戻るから」
「そうしてもらわないと困りますわ」
彼女はそっとお腹に触れる。
「まさか」
毒を盛られ、倒れたあの日の医師の診察でわかった新しい命の存在。そして毒の影響もなく、無事であったこと。
春の微笑みに包み込まれ、再度強くぎゅっと抱きしめてから、部屋を後にする。
そして、
その硬質な幹に触れる。
精霊の言葉を聞いている時代は、このような戦いは一度もなかった。今更だが、偉大な力であったと思う。この国だけの、特別な存在。
「我々を見守っていただきたい。自分達で、未来を切り開くその姿を」
幹から手を離す。
褐色の瞳にも、精霊は見えず、その耳に精霊の声は聞こえはしない。
だが、この木の優しさに触れた気がする。見守ってくれていると、そう感じたのだ。
ラザフォード国は建国以来初、挙兵する。
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