第3話 作られた天才少年


 ピアはフィーネを抱きしめていたが、彼女を癒すためではなく、自分の心の支えにすべくすがっていた。溺れる時のわらの如くの扱いである。


「昔話をしてやろう」


 まるで子供の寝かしつけを始めるかのように、ピアは軽い口調で語り始めた。



 物心ついた時の最初の記憶の風景は、暗い小部屋の中、うずたかく積み上げられた本の壁。窓すらも本に埋まる有様で、彼が座るその場所以外は本、本、本。崩れたら圧死しそうなのが恐怖に繋がった。


 最初にやってきた老人に字の読み方を教えられる。


 それだけだった。


 まず一冊読み、それを扉の前に置くと、母が来て褒めてくれた。

 次の日は二冊読んだ。母はもっと褒めてくれた。


 この人が自分の母親だという事はなんとなくわかっていた。

 彼女は頭を撫でてくれるが抱きしめてはくれない。

 どうしてかわからないけどももっと読めばもっと褒めてくれて、抱きしめてくれるかもしれないと考えた。



 一日に読む本は日に日に増えて行く。部屋からは目に見えて本が減って、ついに窓が見えたのだ。

 そこから外を見ると青い空と緑の大地が見えて、感動のあまり声すら出ず。それまでは紙の白と、インクの黒と、母の金色の瞳だけが自分の世界の色だった。


――外に出たい。


 あの青と新緑の世界に行ってみたいと思ったのだ。


 外からは少年と男性が、軽い鬼ごっこをして遊んでる姿が見え、聞こえるのは楽し気な笑い声。


 食事を運んで来る侍女に、あれは誰? と聞いた。


「坊ちゃまのお父様と、お兄様ですよ」

「へえ……」


――会いたいな……。


 父と言う存在も兄という存在も、本から得た知識しかない。でも本の中の父親はいつも強く兄は優しく頼りがいがあるものだ。


 自分は期待に胸を膨らませて、会える日を待つ。

 きっとこの部屋の本を読みつくせば出られると、そう信じて。


 本の難易度は上がったが、教師が来るようになり詰め込まれるように勉強を続ける。

 そしてついに、全ての本が部屋から消えた。はじめて部屋を出る事が出来て母の部屋でその日はすごし、すごく幸せで幸せで明日は父と兄に会うのだと信じて眠り。


 だけど翌日、またあの部屋の前に自分は連れてこられた。


 扉が開く。

 積み上がった本の山が見え。

 窓は……また失われて。


 何を叫んだのかわからない。母の手を振り払い、走って逃げた。


 しかしずっと閉じ込められていて、運動をしていなかったその体で走れる距離など知れていて、あっという間に追いつかれ捕まってしまい。目線の先に父とされた男と、兄とされる少年が見えた。


「助けて!」


 必死に叫んだ。


 兄は、自分を睨んだ。

 父は、目を逸らした。


 母は我が子を引きずり、部屋の中に放り込んだ。微笑みながら。


 扉はまた閉められる。

 泣きながら、本を読んだ。

 再びこの扉の向こうに行ける日を夢見て。




 突然その日は訪れた。母と父は離縁して、やっとあの本の地獄から救い出されたのだ。


 魔力豊富に生まれた自分。

 魔力が少ない兄。

 母は自分を跡継ぎにしたかったのだと、侍女から聞いた。

 だが兄は魔力が少なくとも、優秀な頭脳を持っていた。

 母はそれ以上の天才に、自分を仕上げなければいけないと。そうしなければ” 彼女の息子 ”が跡継ぎになれないと必死だったようだ。


 あの部屋を出ても父は相変わらず自分を見ない。それが母に捨てられた兄の心を守るためだという事も、同時に知った。


「じゃあボクは、誰に守ってもらえばいいの?」


 その疑問に答えてくれる者は、いなかった。



 この時、自分は僅か八歳。

 誰もが稀代の大天才と呼んだ。

 溢れる魔力と、詰め込まれた膨大な知識。


 もう一生分籠ったはずだとそれ以来じっとしていなくて、いつも周囲の目を盗んで家を飛び出す。

 そして飛び出した先で出会ったのが、同じ年のヘイグ。


 意味もなくケンカを吹っかけて殴り合いにまで発展し、何故だかあっという間に友情が芽生えた。ヘイグが幼くとも人格者だったことも大きい。ヘイグを経由してたくさんの人と出会い、癒され、たくさんの経験をしながら自分で自分を守り育てたのだ。




「と、言う訳だ」


 不愛想でいつも人を馬鹿にしてるような様子を見せるが、心根が優しい事を身近になれば皆が気づいた。ピアは友人だと思っていなくても、ピアを友人だと思っている人間は存外に多いのも救いになっていたが、幼い頃のこの記憶は未だ彼を苛む。



「母が愛していたのは、魔力の多い子供であって、ボクじゃない」

「そんなの、ひどいよ」


 ピアは泣いてはいないが、代わりにフィーネが泣いてあげていた。ポロポロと枕を濡らす。


「父は、母とおまえのために、送金していたんだ」

「え?」

「病んだ母と、幼いお前では管理できないだろうと、近所の人に託していたんだよ」


 彼女の家の隣の夫婦は親切に、わずかだがよく食事を分けてくれていた。まさか……。


「父が死んでからはボクが送金していた。その金が、お前達に使われず、彼らの懐に入っていただけというのを、フィーネの嫁入りを希望する母からの手紙で、初めて知った」

「そんな……」

「会いに行けば良かったな。でもその勇気が出なかったんだ」


 彼は扉から差し込む光を背に受ける、黒い髪と金色の瞳が怖くなっていた。完全にトラウマである。


 ピアは今も、鏡を見る事が出来ない。

 黒い髪と金色の瞳。自分がそれを持っているから。

 髭は、手探りで剃る。


 それでも、母と同じ女性で黒い髪、金色の瞳の少女を受け入れる事が出来たのは。


 初めて見た、窓からの青空。

 あの色が、かたわらにあったからだ。


 そして今、黒い髪と金色の瞳は母の持ち物ではなく、眼前にいるちょっと手のかかる少女の記憶に塗り替えられつつある。

 やっと、乗り越えるきっかけを掴んだのだ。


「ごめんな、フィーネ」

「兄様……」


 初めて彼女は、ピアを兄と呼んだ。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「本当に、あるのか」

「それは、間違いない」


 日が暮れる前ではあるが、街はずれの小さな酒場で早めの杯を傾ける、二人の男。両方とも労働者のような作業着姿であったが、そのうち一人は優男で、力仕事等はしているように到底見えない。


 その胸ポケットには、銀縁の眼鏡が畳まれて入れられている。


「その計画、上手くいくだろうか」

「上手くいかせるのさ」

「……勝手な事は出来ない。報告をまず、そして許可を得なければ」

「面倒な事だな」

「雇われ者の哀しい所さ」

「しかし今回の雇い主は無能すぎる」

「それは、俺も思う」


 続けて、男は諦めたように笑いながら、言葉を続ける。


「しかし、おまえがこんなにもやる気を見せるとは、予想外だ」


 笑われた男は、卓上のナッツをつまみ上げ、ポリポリと噛み砕く。


「この国は故郷だし、よさげな玩具おもちゃが見つかってね」

「はぁ……。優秀だがその趣味は、相変わらずか」

「おまえも食わず嫌いをやめて試すといい、ハマるぞ? あれはいい。王侯貴族だって、美女にいた終着点は、いつもそこだ」

「俺には理解できん。自分は女の方が良いがね」

「はっ、女なんて」


――気色悪いだけだ。あの脂肪の柔らかさが、とにかく不快。


 抱きしめれば包み込める大きさは悪くはないが。そこに柔らかさが加わると、この男……ダグラスは嫌悪感を抱く。


 抱きしめ、包み込める体格、そして脂肪のない引き締まった身体。馬のように無駄のない、筋肉のラインにも美しさを感じる。愛でられる期間は短いが、その儚さもまたゾクゾクする。


 それが彼の” 美少年を愛でる趣味 ”の理由だ。


「まぁ、それが計画に支障をきたさないなら、個人の趣味をとやかく言うつもりはない」

「むしろ、計画に利用してみせるさ、邪魔さえ入らなければな」


――それにあれは、良い拾い物である。


 目前にいる、仲間ともいえる男にも、言うつもりはない。あれは俺のものだと、酒を煽る。


――そう、俺のものだ……。俺のものになるのだ。


 機嫌が良さそうな笑みを浮かべるダグラスに、対面の男は、やれやれと言った様子で息を吐いた。


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