第2話 黒い猫の傷跡
深夜に関わらず駆けつけて、朝までいてくれた近所の医師の後ろ姿を玄関で見送っていたカートは、溜息をついて扉を閉める。
――そりゃ、倒れるよね……。
激務に次ぐ激務。
それに重ねて、思春期の少年少女の精神面の面倒を見ようというのだ。疲れきって当然であった。ピアはよく、カートの食事量の少なさを指摘していたが、そういう自分だって小食じゃないかと。
やたらと活動的で、魔導士らしくなくて失念していたが、それでも部屋に基本的には籠り切りの魔導士だ。体力なんてしれてるだろう。
フィーネが禁忌を犯した事が、特に精神的に来たようだ。
それほどまでに、あれは危険な行為だった。場合によっては……死んでいてもおかしくなかったと医師から聞き、カートも血の気が引いた。「そんな無茶をするなんて」と、カートでさえ今は、フィーネを叱りつけたい気持ちになっているという。
「フィーネ」
「なあに?」
カートの夕べの激白を、フィーネは聞いてしまった。
カートは、あれを聞かれているとは思っていない。
二人とも何事もなかったように、普段通りの関係でいる。
しかしフィーネの内面は、確実に変化していた。ピアと結婚しなければ幸せになれないという呪縛の糸は、カートの叫びで
――あたしも、自分の意思で選んで見せる。母様が決めた道以外を。
そしてピアに指摘された自分のこの気持ちが、依存心であるかどうかもしっかり考えた。確かにそういう部分はあるとは思う。でもそれ以上に、カートの近くにいたいという衝動が沸く。隣にいるのが、誰でもいいわけじゃない。
ピアは、眠っている。
明らかな過労で、とりあえず今は休ませる事が一番の薬。
ゆっくりできる環境を整えて、ぐっすり眠ってもらう事にしている。目が覚めたら、量が少なくても栄養価の高い物を食べさせて。
カートは休めないので、世話は家に残るフィーネに託す。
「こっちに来て座って」
「うん」
椅子に座ったフィーネの後ろにカートは回り込み、その髪を
髪に触れられるのは、なんだかとてもくすぐったい。
「できた」
何をされたのかと髪に手をもっていくと、ボサボサだった髪は編み込まれ、まとめられていた。
そして、あの櫛を渡される。
「これ、フィーネに使って欲しい。大事なものだから」
「え、でもこれ……」
少年は優しく微笑む。
フィーネは櫛を受け取り、きゅっとに大切に握った。
「ありがとう……大事にするね」
鏡を見ると、自分の髪とは思えないスッキリとした首元。細い首に落ちる後れ毛が、ちょっと大人っぽく見える。
「家事をするなら、まとめた方が邪魔にならないと思って」
「でもこんなの、自分で出来ないよ」
「僕がやってあげるよ」
昼間は食堂になっているような酒場は、近所の憩いの場になっていて、少年は近所の子供の子守もよくやっていた。その中には小さな女の子もいたし。
女の子は、髪に小さなリボンがつくだけでも喜んだ。
フィーネだって女の子だ。お洒落で気分が上がるはず。少年はそう考えたのだ。
ピアが倒れた原因が自分にあると、彼女は反省し、落ち込んでいた。カートに続き、ピアも自分のせいで寝込むなんて、随分と己を責めている様子でもある。
少年は少女の耳元で、やさしく声をかける。
「フィーネは悪くないよ」
「ありがとう、カート」
「僕、そろそろ出るね」
「うん」
気づけばいつの間にか、カートは騎士団の制服を着ていた。制服姿の彼を凛々しいと思ったあの日が、最初に意識した日ではあるが、今は制服でない彼もカッコイイと思ってしまう。
一緒に眠ったあの夜は幸せだった。体温と一緒に、心も満ちた。今まであんなふうに大切に抱きしめられて眠った夜が、あっただろうか。
「いってらっしゃい。なんだかこういうの、夫婦みたいだね」
はにかみながらそう言った。
「ほんとだね」
カートは頷き、微笑んで返した。少女はぽっと、頬を赤らめる。
ままごとみたいだけど、フィーネにはこういう時間と経験が大切なんだと、少年は思う。そして自分にも、これは必要だと感じていた。
家族をもう一度、やり直す。
寂しがっている自分の中の幼い子供を、家族の愛で育てるのだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
この日のカートの騎士団員としての仕事は、城内の警備である。各所にまわり、警備兵から報告を受け、記録に残す。
かつては騎士団が緩みきり、警備の兵も仕事がおざなりになっていた。雑談をして、ただそこで立ってるだけという者は多くて。
騎士団員を巡回させ、警備内容の報告を細かにさせる事で、その警備を引き締める事を目的とし、ヘイグの代になって始められたのだが、その巡回の騎士団員が不真面目だったりするので、警備はゆるゆるだった。
だがあの事件以降、アーノルド達が真面目にこの仕事をやるようになって、だいぶマシにはなっている。黒い
もう平和で安全ではないと、緩んだ気持ちが引き締まったのは、怪我の功名ともいえるだろうか。
カートは、兵士達に人気だ。
「お、今日の担当はカート君か」
「おはようございます、ご苦労様です」
可愛らしい顔で、微笑みながら労わりの言葉をもらうと、夜勤でささくれた気持ちも癒されるし、何より彼は庶民から騎士になった希望の星でもあった。
他の貴族騎士に言えないような要望もカートには言いやすい。そして言えば、彼はそれを精査して必要と判断すれば必ず団長に報告し、対応してくれる。
その態度は他の貴族騎士も刺激していて、カート以外の騎士も同様の対応をしてくれることがかなり増えていた。
こうまでされて、信頼せずにいられようか。
「変わった事はありませんか」
「そうだなあ」
城内警備の二人の兵士は、同僚と顔を見合わせて頷き合い、意を決して報告する事を決めたように口を開く。
「なんだか、やたらと来客が多くて」
「来客?」
「ええ、神官のカイト様への来客が……」
神官に面会したいという人間は多いだろうから、特段気にするような事ではないよう思えるのだが。
「なんだろう、勘みたいなもので、報告は悩むのだけど。信者ではないというか……そもそもラザフォード国の民ではないような」
南の方のなまり。
人目を忍ぶような時間帯。
長時間の滞在。
「なるほど……。僕は、あなた方の違和感は、重要だと思います。いつも真剣に、警備のために周囲に気を配っているからこそ、それに気づかれたのだと」
褒められ、評価されたと感じ、兵士の顔が明るくなる。
「僕の方でも調べてみます。警備の方でも、いつも以上に注意して見ておいてくれますか? もし何かあったら、担当日じゃなくても気にせずに声をかけてください」
「ああ、わかった。任せてくれ!」
やる気をみなぎらせて警備を再開した兵士を見送り、少年は考える。カートもあまり、神官の事は知らない。騎士の叙任式に、いたような気がする程度だ。
精霊を信仰しているのはこの国だけ。他国民が、その神官にいったい何の用があるというのか。
ラザフォード国の南、隣国のドアナは長く海の民との戦いを続け、疲弊しつつある。何度もこの国に、救援を求めて来たが、精霊は拒否し続けていて、実際にこの国から兵を出した事はない。
難民的なものの可能性もあるが……。
カートはこれを、団長に報告すべき事案だと判断した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ピア?」
微かな瞼の動きに、彼が目を覚ますと気付いたフィーネは、椅子から立ち上がって声をかけた。
目を開けた瞬間、ピアはがばっと起き上がり、フィーネに一瞬だけだが、怯えた表情を見せた。
すぐにいつもの表情を取り戻し、息を吐く。
「……フィーネか……」
「ピア、大丈夫?」
「ああ。倒れたのかボクは」
「うん、過労だって。カートがすごく心配してたよ」
「情けないな」
ベッドから降りようとしたのを、フィーネが止める。
「まだ起きちゃだめだよ」
「用を足したいだけだ」
「あっ」
フィーネは真っ赤になって離れる。
そんな事を言って、出かける準備をはじめるのではないかと、彼女はずっと、彼の後ろをついてまわった。
「落ち着かない」
「だって……」
「わかったわかった、ちゃんと寝てるから」
ベッドに潜り込むピアを見て、フィーネはほっとした顔をした。ピアはもぞもぞとベッドの端に寄り、隙間を空けると、ポンポンとそのシーツの上を叩いた。
「フィーネ、ここにおいで」
「へ?」
「おいで」
少女は躊躇したが、ベッドのその余白に体を横たえると、ピアは彼女を抱き寄せてきた。
「今まで、すまなかった。ボクは逃げてた」
「何から?」
「母から」
「なんで? 母様が一番愛していたのは、あなたでしょ」
フィーネは驚いた顔をした。
フィーネが驚いた顔をした事に、ピアは泣きそうな顔を返す。
傷ついて、傷ついて、傷つき尽くしたような、目をしていた。
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