第6話 気持ちはもつれて


 カートが再び目を覚ましたのは、お昼を少し過ぎた頃。

 ゆっくりと体を起こすと少しフラフラと眩暈めまいがするのは、おそらく食事をしていない事が原因のように思えた。


 フィーネと和解した、と言えるだろうか。


 許せるかというとまだ心にしこりが残っている気はするけれど、彼女の泣き顔をもう一度見たいとは思わないし、できれば笑った顔の方を見てみたい。彼女の微笑みを見たのは今日が初めてのような気もした。ピアに対しても笑顔を向けてはいなかった気がするのだ。


 やっとではあるが遠慮や気遣いの距離感を掴んだ事でだいぶカートの気持ちは楽になっていたし、夢を見ないほどよく眠ったおかげか熱も下がっているようだった。枕元に置かれた水を飲み切って水差しとグラスの乗ったトレイをその手に少年が階段を降りて行くと、台所にいた少女が、一瞬ぴょこんと飛び上がって驚いた様子を見せた。


「あ、あれ!? もう起きて大丈夫なの」

「少し何か、食べておこうかなと思って」

「食べられそう?」

「うん、何か残ってる?」

「座って待ってて!」


 彼女はぱぁっと明るい表情を見せた。金色の瞳はくりくりと大きくて、ピアの少女人形のよう。太陽みたいだと、少年はぼんやりと思う。ピアの金色の瞳は、日暮れ直後の山際の満月のように思うのに。似てるけど、同じではないのだと、気づく。


 彼女は何かを鍋で温めて皿によそうと、少年の前に置いたのだが、カートはそれを見て少し驚いた顔をした。シチューにこの地方独特の硬いパンをそのまま入れて、溶けるぐらいぐずぐずに煮込んだものである。見た目はちょっと悪いけど、少年はこれが好きだった。病気の時、一緒に暮らしていた酒場の主人が作ってくれていたもの。


「ありがとう」


 お礼を言われ、フィーネは少し誇らし気な顔をした。

 カートは一口食べて、その青い瞳を見開いた。まさしくそれは、その酒場の主人、ゼルドの味だったから。少女の方に顔を向ける。


「このまえ道案内してもらった時に、ここが育った酒場って教えてくれたでしょ。そこに行って聞いてきたの、作り方」

「そうなんだ。嬉しい、これなら食べられるよ」


 少年はパクパクとそれを美味しそうに食べるから、少女は胸のときめきが更に高まり、それを落ち着かせようと両手を組んでその胸に当てる。


「いいお嫁さんに、なれそう?」

「うん、これはピアさんも好きだと思うよ」


 ピアの名前が当然のように出て来た事に、フィーネは少しがっかりした。カートにとって、フィーネはピアの将来の妻というくくりのままで、自分を異性としては見てくれない事に気付いたからだ。最初に散々、そう言った自分も悪いのだが。

 なんとなく自分だけがこんな苦しい気持ちになっているのが、悔しい気もしてきた。カートにも自分に対してドキドキしてもらいたい、そういう欲求が少女の心に満ちて行く。


 少年は皿一杯分のシチューを全部、食べ終えた。


「美味しかった」


 少年は立ち上がると当然にその食器を洗おうとしたので、フィーネは慌てて割り込む。


「片付けは、あたしやる! カートはもう少し休んでて? あとこれからも、家の事はあたしがやるよ」

「フィーネが?」

「掃除だって洗濯だってできるし、ご飯も、もっといろいろ作れるようになるよ」

「わからない事があったら聞いてね。僕も一緒にやるよ」


 ニコっと少年は笑う。それは演技ではない、親しみを込めたものだったから、少女は反射的に頬を赤らめる。それを見て、カートは不思議そうな顔をした。


「フィーネ?」

「うん、一緒にやろうね」


 少女は慌てた様子で、ぐいぐいと少年をリビングに押し出して、せっせと食器の後片付けをはじめた。カートはリビングに出しっぱなしだった本を片付け、毛布を畳む。


 少女は先程のカートの微笑みを思い出し、浮ついた気持ちで鼻歌を歌いながら布巾で皿を拭いていたが、調子に乗って適当に扱ったため、手が滑ってそれを落としてしまい、皿は大きな音を立てて砕け散った。フィーネは慌ててその欠片を拾い集めようとしゃがみ込む。

 階段を登りかけていたカートが、音に驚いて駆け戻って来た。


「どうしたの?」

「手が滑っちゃって……」


 すぐに駆けつけてくれた彼が頼もしく見えて、再びキュン。

 破片で手を切ってしまっている事も気づかずに、ぼんやりとその顔を見てしまう。


「怪我をしてるじゃないか」

「え? あっ」


 ぽたり、ぽたりと鮮血が床に落ちる。慌てて少年は清潔なハンカチを、引き出しから一枚取り出して、その傷ついた指に巻いて押さえた。

 

「とりあえずこれで押さえてて。どうしよう、フィーネは治癒の魔法は使えるの?」

「……治癒魔法は難しくて」

「とりあえず血が止まるまで、このままでいてね。後は僕か片付けるから、座ってて」


 テキパキと破片を掃き集め、床に落ちた血をふき取り、手際よく片付けられるのを彼女は椅子に座ってぼんやりと見とれていた。しかしふと、病み上がりの彼をこんなふうに働かせてしまった事を後悔する。


「カート、ごめんね」

「フィーネは悪くないよ。こういう事、僕だってあるから」


 ふんわり優しい微笑み。

 彼が心底、優しい人なんだと少女は知る。

 そんな彼に意地悪をして、寝込むほど追い詰めてしまった事が、罪悪感としてのしかかって来た。母に対してできなかった甘える態度を、ピアではなくカートに向けてしまった後悔。言ってはいけない傷つける言葉も、たくさん言ってしまった。


 折ってしまった櫛はまだ直せていない。彼はその事に全く触れないが、きっとあえて触れずにいてくれてるような気もした。彼はそういう優しい人なのであるとフィーネは痛感している。

 

 うつむいて、泣きそうになってしまう。


「痛いの?」


 心配そうにそばに寄る少年に、下を向いたまま首を左右に振るが、その勢いで、涙がポロッと一粒、膝に落ちてしまった。


「破片が入っちゃったのかな……」


 彼は心配そうに少女の手を取ると、丁寧にそのハンカチを外し、傷口をあらためる。血は止まっていた。


「破片は大丈夫そう。ピアさんが帰ってきたら治してもらおう。水仕事はしないでね」


 再びハンカチを巻きなおし、きゅっと縛る。

 触れられた手が熱い。

 喉の奥、胸のあたりも、熱い。


「ねえカート」

「なあに?」

「ううん、なんでもない」


 一瞬、好きな人はいるの? と聞こうと思ってしまったけど、聞いてどうしようというのか。自分の結婚相手はもう、決まっているのだ。ピアは自由にしてもいいと言うが、それでも決められているのだと。


 幼い頃から繰り返し、まるで呪いのように、紡がれ続けた言葉。「おまえは、ピアと結婚する」と、刷り込まれ続けて来た。そう簡単に意識は変えられない。

 苦しい生活の中で、フィーネがピアと結婚すれば全てが良い方に変わると母は信じていたし、彼女自身もそう思っていた。その未来があると思えたから、貧しい母子だけの生活を乗り切って来られた部分もある。


 カートの事を好きになって、もしカートも自分の事を好きになってくれたとしても、母はきっと許してくれない。母から聞いていた彼は、庶民で、父親も不明という身分。母の切望する魔導士でもない。


 やっと手に入れた、今の満たされた安らぎの時間。


 たまにしか見てくれなかった母や、仕事に忙殺されているピアと違い、カートだけが自分をずっと思いやってくれ、彼がこの幸せの環境を作ってくれていた事に気付いてはいる。

 だけど、フィーネはどうしても、ピアと結婚しなければ幸せになれないという刷り込みからも逃れられず、苦しさに心はのたうつ。


 ピアへの思いとは違う、この胸に初めて灯った熱い光が、きっと恋というものなんだろうという自覚はあったけど、ぎゅっと心の奥底に押し込んで隠すのが、彼女にとっては正しい選択肢に思えた。


 ……でも。


――好き……。


 気持ちはぐしゃぐしゃに、もつれる。


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