第5話 二人の距離


 翌朝、ピアとフィーネがパンだけの朝食を食べていると玄関からカタリと物音が聞こえた。


「あたし、見て来るね」


 フィーネが台所から元気に飛び出して行く。

 少女がリビングから出ると、カートが帰宅して来た所であった。


「カート、お帰り! もう大丈夫なの?」

「うん」


 一瞬だけフィーネを見たが、視線を床に落として自室に向かって行くので、少女はそれを追いかけ階段を登りかけたカートの腕を掴んだ。


「ねえ、ちゃんとこっち見てよ!」

「別に見たくないし」

「まだ怒ってるの? ごめんってば」

「もう嫌なんだよ、君に関わるのはっ」


 その腕を思いっきり振り払った。いつもの少年ならこんな乱暴な行動をしないのだが、彼女に対してはもう……遠慮なんてしない。

 だがそんな風に力任せに振り払ったせいで、彼女は一段だけ登っていた階段を踏み外し、尻餅をついた。


「きゃんっ!」

「あっ、ごめん」


 反射的に地といえる優しい少年に戻ってしまい、慌てて彼女を助け起こすとはっとして慌てて立ち上がらせるために取っていた手を離し、目を逸らす。


「ねえカート、本当にごめんなさい、あたし……」

「……これからちゃんと、僕の話を聞いてくれるなら、許すよ」

「わかった、約束する」

「じゃあ、もう行っていい?」

「あ、うん……」


 少年は、トントンと階段を早足で登って行ってしまった。

 それを見上げるように見送っていたフィーネの後ろに、ピアが立つ。


「カートが帰ってきたのか?」

「うん」


 黒髪の青年は、顎に手をやる考え事の癖を見せる。


「とりあえず、フィーネは朝食を終わらせて来なさい」

「……うん」


 少女は何か未練があるようだったが、素直に指示に従う。

 ピアは階段を登りカートの部屋をノックすると、ためらいを予感させる時間を置いて返事があった。

 少年は部屋着に着替え終わりベッドの端に座っている。ピアはそばまで歩み寄り額に手を当ててみた。昨日ほどではないが熱い。


「下がってないじゃないか」

「医務室のベッドを、いつまでも占有する訳にもいかないと思って」


 少し回復してくると遠慮と気遣いの塊のような少年にとっては、あの空間は落ち着かなかったようだ。


「家で休めるか?」

「はい」

「何か食べるか?」

「……」


 頭を小さく左右に振ってうつむく。おそらく昨日も、何も食べていないはずだ。元々少年は同年代の子らと比べて随分と食が細い。今現在は小食のピアですら、この年頃はずっと何かを口に入れていて、いくら食べても満腹にならなかったような気さえするのだが、カートはいつも、小鳥のエサと揶揄やゆされてもおかしくないぐらい深層の令嬢もかくやという分量しか食べていない。そんな量で足りるのか何度も確認したが、彼はきょとんとした顔で平気そう。

 少し身長は伸びて体格も以前よりは良くなってはいたが、それでも細身で華奢である。体力のなさの原因はこの食事量の少なさのような気さえするのだ。


「それはいけないな。とりあえず横になりなさい」

「……はい」


 もぞもぞとベッドに潜り込む少年にピアは毛布をかけて、ぽんぽんと肩を叩いた。


「ボクは今日も城に行かねばならないから、フィーネに後を頼むしかないが、それでも大丈夫か?」

「……はい、平気です」


 返事の躊躇の加減から明らかにピアに気を使っての返事で、実際、フィーネと一緒に在宅というのも気が重そうだ。しかし水や薬はフィーネに運んでもらわねばならない。


 ピアは見送りをするフィーネに、カートの世話を託し、なるべく早く帰るからと言って、出かけて行った。

 フィーネは早速、水差しとグラスを用意してカートの部屋に向かう。扉は薄く開いていたので、そこから覗き込むように声をかける。


「カート、お水持って来たから入ってもいい?」

「うん」


 行儀は悪いが手がふさがっていたので、足でちょこんと扉を押して開くとトコトコと歩みより、枕元のテーブルに水差しの乗ったトレイを置いた。


「飲む?」

「今はいらない。喉が渇いたら自分で飲むから」

「何処か、痛かったりする? 苦しい?」

「大丈夫だから、あっち行って」


 毛布を頭まで引き寄せて、反対側に向いてしまったのだが、フィーネはしつこく食い下がる。


「カート、ねえ、顔をちゃんと見せて」

「もうっ、何なんだよ! しつこいよ、そんなに苦しんでる僕が見たいの?」


 がばっと毛布を避けて、苛立ったようにカートはフィーネと向き合うと、彼女は金色の瞳に溢れ続ける涙をはらはらと落としていて、心からの不安そうな顔で少年を見ていたのだ。

 我儘で身勝手な少女は、見る影もない。


「フィーネさん?」

「カート、死なないで、死んだらやだ、ひっく、うぇ、ひっく」

「死なないよ、熱が出たぐらいで」

「庭師のジョセ爺も、そんな事言って、寝るって言って、そのまま、起きてこなかったんだもん」


 彼女の家には、貧しさが増してもう雇えないからと暇を出していた老庭師がいたのだが、彼はフィーネ母子を心配し無給で庭の手入れと女性二人の生活の世話をしてくれていた。だが寄る年波には勝てず、彼女が十歳の頃に亡くなっていた。フィーネの生活はそこから一気に悪化している。


「僕は大丈夫だから、泣かないで。泣かれたら心配になっちゃう」

「だって、止まらないの、どうしよう」


 親しかった優しい老人の死を思い出した事も、彼女の瞳から涙を押し出す。小さい子供のように、しゃっくりを伴いながら泣く彼女は弱々しくて、カートは自分がいじめて泣かせてしまったような罪悪感が沸いて来た。


 彼女のあの行動は許しがたくはあるが、あれが地とも思えなかった。初めて会う相手に弱みを見せないよう、虚勢を張っていたようにも思える。

 とげまとわなければ生きていけない程に、追い詰められていたのではないかとも。人との距離感の掴み方もわからず、甘え方も付き合い方も知らず。母親の元から離れても、頼りのピアは忙しくてそばにいてくれない。

 不安も苛立ちも、悲しさも寂しさも、ぶつけられる相手はカートだけ。


 少年は溜息をつくと、精一杯の力で体を起こす。


「来ていいよ」


 かつて泣きたがったカートを、ピアが受け止めてくれたように、今日は少年が、ピアに似た少女の涙を受け止める。彼女はカートの胸にすがるように抱き着いて、ひとしきり泣き、カートはその髪をずっとでる。

 ツンツンしていた彼女が、こんな風に泣いているのが不思議でたまらなかったが、素直なその姿は、可愛い気もした。


「心配かけてごめんね。でも寝ていれば治るから。僕、時々だけど、こういう事があるんだ」

「泣いて、ごめんなさい。具合が悪いのに、甘えてごめんなさい……」


 二人で謝り合い、青い瞳と金色の瞳のがまっすぐにお互いを映し込むと、どちらともなく気恥ずかしそうに微笑んだ。


「あたしのこと、呼び捨てていいよ」

「わかったそうする。改めてよろしくね、フィーネ」


 掴みあぐねていた距離感を、少年は掴んだ気がする。恐らく今日のこの彼女が本来のフィーネの姿なのだと感じて。

 彼女は気を使われる事を、望んではいないのだ。


「喋ってたら喉が渇いたかも」


 フィーネはそれを聞いて、ぱっと水差しからグラスに水を注ぎ、少年に手渡した。彼はコクコクと音を立てて飲み、はぁと息を吐く。


「このお水、なんだか甘いね」

「ピアがカート用にって、出かける前に色々混ぜて作っていたよ」

「フィーネは飲んでみた?」

「ううん」

「散々泣いたから、喉が乾いてるんじゃないの?」

「少し」


 少年にグラスを戻される。


「飲んでみたら?」

「じゃあちょっとだけ」


 少女はそのグラスに水を二口分ほど足し、飲んでみる。


「あ、本当だ、甘い。おいしい!」

「ね、美味しいよね」


 少年は微笑みながら、再度ベッドに横になる。その微笑みがあまりにも優し気なので、乙女心をときめかせた。これまで彼の見せる笑顔が、愛想笑いだったこともフィーネに反発心を抱かせていたのだが、これが本来の彼の笑顔なのだと少女は知る。


「少し、眠るね」

「うん、静かにしてる。おやすみなさい」

「おやすみ」


 少年が目を閉じたのを確認して、少女は部屋から出ると階段を降りる。

 名前を呼ばれた時の気持ちと、同じグラスで同じ水を飲んだという事実が、彼女の顔を真っ赤にしていた。


「どうしようあたし、カートの事がもう好きになってるのかも」


 なんとなく、距離も縮まった気がする。

 あとは彼が元気になってくれれば。

 櫛は……まだ直せてないけど……。


 この仲直りは彼の方が折れてくれ、出来た事であると、フィーネは痛感している。許されたわけではないとも。

 彼がしっかりしているから失念していたが、自分の方が年上である。


 少女はしばし思案し、何か閃いたように、玄関から外に出て行った。


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