第10話 供物 その五



 強い悪魔の匂い。

 だが、ときおり、それが弱まり、人の匂いに戻る瞬間がある。


 源をたどりながら、龍郎の胸はおどる。やはり、ヨナタンはまだ完全に悪魔化したわけではない。アフーム=ザーの呪縛に抗おうとしているのだ。


 暗闇の洞窟をひたすら、匂いのもとへ急いでいると、ものの三十分もして、ひときわ匂いの集中している場所に出た。今現在、その匂いがしているというよりは、残り香だ。


「どっか、この周辺なんだけどな」


 しかし、行きついたのは袋小路だ。どうやら、その壁のむこうから匂いがしている。おそらく、匂いをたどっていっても、遠まわりしなければ、その部屋へ行きつけない構造になっているのだ。


「この向こうだな? どいていろ」


 マルコシアスが龍郎をさがらせ、ドンッ——とこぶしで壁を叩いた。ほんの一回、片手でだ。もろい木の壁は、それでいっきに崩れおちる。さすがは魔王だ。朽木の軟度だからということを考慮しても怪力だ。こぶしでトンネルを作ることは、龍郎にはできそうにない。


「そうだな。おまえの今の体は人間にすぎないからな。さあ、龍郎。行くぞ?」

「ああ」


 マルコシアスは自身のあけた細い坑道のような穴に身をかがめて入っていく。いつのまにか、その姿が犬になっている。スゴイ速さで先行するので、龍郎はついていくのに必死だ。


 しかし、五メートルも進むと、穴が空間に通じていた。壁ぎわのくぼみに白いベッドがある。そこにヨナタンがよこたわっていた。体じゅうに医療器具のようなものをつけている。見た感じでは外傷はなかった。


「ヨナタン!」


 思ったとおりだ。近づいてみるが、悪魔の匂いはしない。ヨナタンは憑依状態が解けたのかもしれない。


 器具がなんのためについているか知らないが、おそらく、眠らせたまま生命を維持する装置だろう。以前にも、ここでは囚われていた男がそういうあつかいを受けていた。


 龍郎は器具を外し、ヨナタンの肩をかるくゆすった。

 ヨナタンのまぶたが、ゆっくりとあがる。龍郎を見て、何事かつぶやく。それを聞いて、龍郎は安堵した。ドイツ語だったのだ。


「ヨナタン。おれがわかるか?」

「ヤー……タツロウ」

「うん。よかった。やっぱり憑依なんて一時的なものだったんだ。もとの世界へ戻ろう」

「ヤー……」


 ヨナタンは頭痛を感じるように顔をしかめ、よろめきながらも自分の足で立ちあがった。


「じゃあ、マルコ。現実世界へ戻ろう」


 龍郎は言ったが、マルコシアスは首をふる。


「二人つれて翔ぶには、ここは場所が悪い。この世界の中枢に近すぎる」

「なるほど」


 そう言えば、この世界から最初に脱走するときも、いったん、ゲストの応接室にあたるへ移動しないと、マルコシアスとコンタクトがとれなかった。そこまで移動するしかないのだ。


「わかった。じゃあ、行こう。ヨナタン、ついてこれる?」


 力強くとは言えないものの、ヨナタンはうなずいた。

 さっきのトンネルを通ると、またルリムの寝室へ戻ってしまう。なので、ヨナタンの部屋のドア側から外へ出た。


 朽木の内側を思わせる暗い洞窟を想像していたが、外は白いツルツルした廊下だ。天井も床も壁もすべて同じ材質だ。これにも見覚えがある。以前、螺旋の巣のなかで、女王の塔内部以外はこの金属でできていた。


「やっぱり、ルリム=シャイコースの世界は似るんだな。違うのは間取りだけかもしれない」

「龍郎。この前、私と接触した場所へ行けるか?」

「記憶はしてないよ。探さないと」

「この前のときはどうしたんだ?」

「たしか、フサッグァがその場所に来てたから、匂いでかぎわけたんだ」

「今はそんな匂いは?」

「ないよ。ルリムの匂いから遠ざかるしかないな」


 女王の塔は以前のときも世界の中央にあった。ということは、今回の巣でも中心的な位置にあるだろう。そこから遠ざかれば、必然的に世界の端へ行くことになる。


 すると、ヨナタンが頭を押さえながら告げた。


「タツロウ」と声をかけたあと、ドイツ語で何やら言っている。龍郎はスマホをとりだして、翻訳機能をオンにした。どうやら、さっきの部屋につれられていく前に、それらしい場所を通ったと言っている。


「出口に近い場所がわかるんだ?」

「ヤー」

「じゃあ、案内してくれるか?」

「ヤー」


 歩きだすヨナタンについていく。以前どおりのヨナタンで安心した。多少、体力は落ちているようだ。帰ったら、しっかり保養させないといけないと、龍郎は思う。


 まがりくねった廊下を歩いていく。ときどき、働きアリに該当するお世話係の悪魔を見かけた。が、戦闘天使にはまだ出会わない。


 首をかしげながら、ヨナタンは何度か立ちどまり、そのたびに進行方向を指で示す。

 どうやら「こっちだ」と言ったらしい。そのあと、急に走りだした。出口が近いのかもしれない。


 追いかけて走ると、前方にドアが見えてきた。逆光になっているのか、ドアのすきまから光がもれ、四角く形が浮きあがっている。


 あの向こうへ行けば、世界の端だ。もとの世界へ帰れる——


 希望の光に、歓喜がこみあげる。

 だが、扉をひらいた瞬間、龍郎はがくぜんとした。

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