第10話 供物 その四
おそらく、ここは結界のなかにある、さらに小さな結界だ。以前、青蘭の実兄アルバートが同じような技を使っていた。
この手の小さな結界は守りがかたい。通常の結界をやぶり、異次元から異次元へ飛翔する能力を持つ者にも、突破しにくくなる。
(マルコシアスはどうしたかな? はぐれたけど。助けにきてくれないだろうか?)
試しに念じてみるものの、マルコシアスらしき気配を感じられなかった。
そのまま、数時間すぎた。もしかしたら、もっと長時間だったかもしれない。ただ、妙に意識がフワフワして、時間の感覚が希薄なのだ。何度か、うたたねしていたように思う。
とつぜん、耳元で大きな音がした。朝になって目覚ましが鳴りだしたときの気分だ。
「わッ! なんだ?」
電話だ。スマホが鳴っている。清美からだった。
「清美さん!」
「はいはい。やっぱり、捕まったんですね?」
「そうです」
「今、その近くにマルちゃんがいます。だけど、彼の力だけでは結界をやぶれないらしいんですね」
やはり、そうか。なんとなく、そんな気がしていた。
「結界がかたいんですね。以前はそれでどうしても、マルコシアスといっしょに結界をやぶってくれる人が必要になって、ルリムに助けてもらったんだ」
その代償として、苦痛の玉、快楽の玉、龍郎自身のうち、どれかを渡す約束をした。あのとき、ルリムの助力なしで結界をやぶることができていれば、そもそも、こんなことにはなっていない。
「じゃあ、今度は誰の助けを借りたらいいんですか? ガブリエル? でも、苦痛の玉をなくしたおれは、天使たちにとって無価値でしょう?」
すると、思いがけないことを清美が言う。
「誰の助けもいりません」
「えッ?」
「龍郎さんが翔べばいいんですよ」
「どうやって?」
「それは自分を信じてください」
「えッ?」
そんなことを言われても困る。翔ぶことができるのは、天使やルリムのように空間を移動できる能力を生まれつき持つ者だけだ。ただの人間の龍郎にどうしろと言うのか。
「龍郎さん。ファイトですよ。じゃあ、三時ピッタリになったら、翔んでください」
言うだけ言うと、電話は一方的に切れた。
「えッ? ちょっと待ってくださいよ。清美さん?」
スマホに浮かぶ時間表示は二時五十九分だ。三時ジャストまで、あと一分しかない。
(わッ! 一分でどうしろって? 翔ぶ? 翔ぶんだ! とにかく翔ぶ!)
ガラスの壁に両手をあてて念じていると、頭の奥に千枚通しで穴をあけたように、マルコシアスの声が聞こえた。
——龍郎! 私がひっぱる。手を伸ばせ!
針で突いたような小さな穴だが、そのむこうから手が現れる。クニャクニャと半透明なコンニャクにしか見えない。だが、それがマルコシアスの手だということは直感的にわかった。迷わず、つかむ。
——いいぞ。龍郎。こっちだ!
強い力でひっぱられる。針の穴にムリヤリ頭を通そうとするような抵抗感があった。自分が一本の糸になっていくような感覚を味わいながら、穴を通りぬける。肩まで来ると、とつぜん、パンッとガラスの壁がはじけた。
龍郎が立っていたのは、あきらかにルリムの寝室だ。ルリムは部屋の一画の豪華な寝台で熟睡中だ。しかし、これも真の姿ではないようだ。龍郎が見ている幻覚なのだろう。ときおり、強いめまいとともに目がくらむと、一瞬、何か異様なものが見える。それが、ルリムの正体……。
「龍郎。早く。逃げるぞ」
マルコシアスが人間の姿でかたわらにいる。龍郎はうなずいて、彼のあとについていった。
以前のルリム=シャイコースの巣で見た、女王の塔内部に似ている。つまり、腐乱した木の内側を思わせる空間だ。暗くてよく見えないが、足場がもろく崩れやすい。
「できるだけ遠くへ。女王が寝ていて助かったな」
「ありがとう。マルコシアス」
マルコシアスはかすかに笑った。暗闇のなかだが、ほのかに見わけられる。
「私は力を貸しただけだ。それより、龍郎。逃げているだけではいけない。ヨナタンを見つけたいのだろう?」
「うん。そうだった。どこにいるかわかるか?」
マルコシアスは首をふった。
「それは、おまえのほうがわかりやすいはずだ。悪魔の匂いをたどれば」
マルコシアスの言葉に、龍郎はひるんだ。ヨナタンは憑依されているだけだ。だから助けたい。そう思って、ここまで来たのに、悪魔だと言われれば。やはり、すでに手遅れなのだろうか?
(ヨナタン……)
いや、そんなことはない。まだ、まにあうはずだと、龍郎は思いなおした。とにかく、まずは会ってみないことには憶測を重ねても意味がない。
気をとりなおして、龍郎は言われたとおり、悪魔の匂いをさぐった。強烈な匂いはすぐ近くにある、ルリムのそれだ。クトゥルフに匹敵するほど強い悪魔の匂いがする。
それとは別に、もう一つ、強い匂いがあった。しかし、なんだろう。匂いが周期的に強くなったり、弱くなったりしている。とても不安定だ。
(あれ以外には、ほかに気になる匂いはない。火の精と同ていどの低級悪魔がわらわら。それよりはかなり強い上級悪魔が、その十分の一くらい。たぶん、戦闘天使だ。異質なのは、あの一つ)
あれがヨナタンだろうか?
その匂いのもとへ、龍郎は歩きだした。
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