第10話 供物 その三



 龍郎はこぶしをにぎりしめ、歯を食いしばった。


「それは……できない」


 青蘭と敵になる。

 殺しあうことになる。

 そんなことできるわけない。


 それどころか、人間をも殺戮するかもしれないというのだ。いや、かも、ではない。絶対にそうなる。邪神側の戦士になるということは、そういうことだ。


 昨日まで友達だった者も、父も、母も、清美や穂村だって、龍郎にとっては大切な人たちだ。その人々を傷つけることはできない。


 いや、たとえ見ず知らずの人間だって、その命を奪うだなんて考えられない。これまで悪魔を退治する過程で、多くの悲しい人々を見た。つらく苦しい思いを残して死んでいった霊を。


 自分が誰かにあんな残酷なことをするなんて、絶対にあってはならない。


「おれは、青蘭の敵にも、人間の敵にもなれない」

「それが、あなたの答えね?」

「ああ」


 ルリムはどこか悲しげな目で、龍郎を見つめた。ほんの一瞬、微笑んだようにすら見えた。龍郎の答えを最初から予想していたのだろう。


「……あなたなら、そう言うと思った」


 つぶやいたあと、ルリムは深呼吸する。何かを決意した顔だ。


「じゃあ、龍郎。あなたには生贄になってもらうわ」


 そうだった。逃げだす前にも、フサッグァが主張していた。龍郎を生贄にすべきだと。


 ここでイヤだと言えば戦闘になるだろう。戦う覚悟はしてきた。だが、まだヨナタンの行方を聞いていない。自分が生贄になるとしても、ヨナタンだけは救いださなければ、ここまで来た意味がない。


「条件がある。ヨナタンを返してほしい」

「返す? 愚かね」


 やはり、すでにヨナタンがアフーム=ザーの器になったことを、ルリムは知っている。ことによると、ヨナタンはここにいるのかもしれない。


「アフーム=ザー。君たちの王なんだろ? ヨナタンは君たちの王に憑依された。ヨナタンを返してくれるなら、おれは君の言うとおりにしよう」

「それはできない」


 今度はルリムが拒絶の言葉を吐く。

「そんなこと、できるわけないじゃない。彼はもう人じゃないわ。わたしたちの王よ」


 やはり、交渉は決裂した。

 その空気は龍郎だけでなく、おそらくはルリムも感じただろう。


 龍郎は剣を呼びだそうと意識を集中した。一瞬だ。それほど長い時間がかかったわけではない。


 それなのに、右手の内で退魔の剣が形態化したときには、ルリムの姿は消えていた。

 あたりは闇だ。何が起こったのか理解するのに、少しの時間を要した。


「……なんだ? ここ?」


 また、あの部屋に閉じこめられたのだろうか?

 最初にこの世界で監禁されていた暗闇の空間。そう思い、とりあえず、前に進んでみる。すると、すぐに固いものにぶつかった。ガラスのような壁だ。


(あれ? 前のときはもっと広かったけど。変だな)


 壁に片手をあてて、ゆっくりと移動する。時計まわりに歩くが、どこまで行っても終わりがない。だが、カーブがかなりキツイ。まっすぐ歩いている感じではなかった。円形の内側を歩いている感覚だ。


 イヤな予感がして、龍郎は両手を伸ばしてみた。思ったとおりだ。両手がガラスの壁につく。つまり、龍郎はひじょうに狭い円のような壁にかこまれている。


(なんだ。これ。閉じこめられたのか?)


 これじゃ戦うどころの話じゃない。まったく歯牙にもかけられていない。


(ルリムはあらゆる魔法を使いこなすって、穂村先生が言ってたっけ。こういうことか)


 攻撃用の魔法だけではない。戦闘をさける魔法にも長けているわけだ。


 龍郎が自分の不甲斐なさに腹を立てていたときだ。とつじょ、目の前にルリムが立った。


「ルリム!」


 龍郎はふたたび、右手に剣を呼びだそうとする。が、いきなり、ルリムが抱きついてきた。泣いている。龍郎の胸に押しつけた彼女の頬から、あたたかいものがこぼれてくる。


「龍郎……どうして『うん』と言ってくれなかったの? わたしたちの王になってくれると」


 これはルリムの本心なのだ。さっきの冷静に生贄にすると宣告したのは、女王の顔。でも、心のなかでは泣いていたのか。

 そう思うと、急に戦う気がなえていく。手の内の剣も形を失う。


「……ごめん」

「あたし、龍郎を好きよ? あたしじゃダメ?」

「ごめん……」


 龍郎の答えは、ルリムにも、もうわかっていたのだろう。責めることもなく、龍郎の腕のなかで、じっとしている。かすかなふるえが、彼女の押し殺した悲しみを伝えてくる。


「ルリム」


 龍郎には謝ることしかできない。言うほどに残酷かもしれないが、言わなければならない。


「君のことは好きだよ。でも、それは恋じゃないんだ」


 ルリムは黙ってうなずいている。そして顔をあげ、しだいに近づいてくる。何をするつもりなのか予測はできたが、それをこばむのは、さすがにあまりにも冷酷な気がした。ルリムの肉厚な唇が、かるくふれる。


「……サヨナラ。龍郎」

「さよなら。ルリム」

「わたしがあなたを好きになったのは、きっと、瑠璃の心ね。だけど、わたしはルリム=シャイコースの女王。次に会うときは敵同士よ?」

「ああ」


 すッとルリムの姿が消えた。


 次に会ったときは敵——

 それはどこか、ルリムが彼女自身に言い聞かせているようだった。でもきっと、容赦はしてくれないのだろう。


「あッ。結界は解けないんだな」


 あいかわらず、ガラスの壁にかこまれている。

 さすがはルリム=シャイコースの女王だ。龍郎を捕まえたまま、生贄にさしだすつもりらしい。

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