第三話 火の精霊
第3話 火の精霊 その一
プラハを逃げるように去って一週間。龍郎は気落ちしていた。
別れを切りだすとき、男らしくふるまえただろうとは思う。だが、内心はもちろん、穏やかではなかった。
ほんとは今でも、これからもずっと愛しているんだ、そばにいてほしいんだと言いたかった。
でも、それは青蘭を苦しめるだけだ。その証拠に、青蘭は追ってこなかった。今ごろはきっと、ミカエルの生まれ変わりの神父と幸福に抱きあっていることだろう。ことによると、もう心臓を重ねて一つになったのだろうか? あれほど天使に戻りたいと願っていたのだ。苦痛の玉、快楽の玉、二つが完全な形でそろったのだから、ためらう必要などない。
青蘭が天使になる。
人としての青蘭が消えてしまう。その考えには耐えられない。愛しい人が今、この場にいないというだけで、こんなにも胸がちぎれそうなほど痛いのに、存在そのものが消滅してしまうだなんて。
M市の自宅に帰っても、青蘭の残した部屋中のぬいぐるみを見るだけで、肺をしぼられるような心地だ。痛い。目に入る何もかもがツライ。
まるでシャボン玉のように、この部屋で青蘭が笑っていたことや、たあいない言いあいをしたこと、甘えん坊な青蘭の手をいつもにぎっていたこと、青蘭のために夕ご飯の献立を考えたこと、寝顔にキスをしたこと、思い出が湧きあがっては消えていく。
ほうけたようになっていた。
だが、この痛みは生涯なくならない。不治の病として、ずっと持ち続けなければならない。もう二度と、青蘭以外の人を愛することはないだろうから。
青蘭が望みを果たせるのだと考えれば、少しは救われた。それが青蘭の求める未来であるなら、黙って受け入れるしかないと。
「龍郎さーん。今夜も鍋でいいですか? 味付けは鍋の素だから、失敗しませんよ」
清美が部屋の外から声をかけてくる。龍郎は自分と青蘭で使っていた二間続きの部屋から這いだした。いつまでも、こうしていてもしかたない。清美や仲間たちに心配をかけてしまう。
「鍋もそろそろ飽きましたね。おれがなんか作るよ。清美さんは何がいい?」
清美の作るスイーツは極上なのだが、ふつうの料理は当たり外れが大きい。一流シェフの腕前のときもあれば、この世の地獄を味わうことも、ままある。本人も自覚しているから、このところ、鍋や焼き肉ばかりだった。どれも失敗しない料理だ。
それでも、部屋にこもる龍郎を気遣って食事の当番を一人でうけおってくれていることは理解していた。龍郎を励まそうとしているのだと。
痛みは痛みだ。死ぬわけではない。たとえ、心の底が血を流していても、おもてでは笑うことができる。人間はそうやって生き続けてきたのだ。
もう嘆くのはよそうと、龍郎は決心した。不治の病とともに生きる決意を。
「たまには魚料理もいいんじゃないですか?」
すると、清美よりもさきに、ガマ仙人がかけよってくる。
「鯛の煮付けが食したい。刺身も美味じゃが、買えるからのう。煮付けは作ってもらわぬことには食卓にのぼらぬゆえ」
「わかりました。じゃあ、いきのいいやつを買ってきます」
と答えつつ、龍郎は不思議でならない。苦痛の玉を失ったのに、なぜ、自分はまだガマ仙人が見えるのだろうか? マルコシアスも当然のような顔をして、いまだに家に居座っている。
(おれの霊感って、苦痛の玉が体内にあったから発現したはずなんだけどな)
いったん顕現したものは、玉がなくなっても消えないのだろうか?
龍郎の祖母も神社の巫女だったようだから、霊感は家系的な体質なのかもしれない。
「じゃあ、買い物に行ってきます。夜にはどうせ、穂村先生も来るんですよね?」
「もちろんです。でも、買い物するなら、わたしも行きたいです。そろそろトイレットペーパーも切れるし、卵がなくなりそうなので」
「いいですよ」
妖怪どもは当然、留守番だ。そうなると、ヨナタンが家のなかで妖怪のお守りをしなければならなくなる。
「ヨナタンもたまには出かけるかい?」
日本語でたずねると、居間の座敷からのぞいていたヨナタンがうなずいた。日本語の意味を解しているのかどうかはわからない。
龍郎は急いで顔を洗った。鏡をのぞくと、ヒドイ顔をしている。そう濃いほうではないが、数日ほったらかしだったから、無精ヒゲが生えていた。キレイにヒゲをそると、サッパリして快い。
(そう言えば、ルリムのとこに帰らないとな。帰ると約束したんだから)
そんなことを考えて、ぼんやりしていると、鏡の奥を何かがよこぎっていった。青白い人魂のように見えた。おどろいてふりかえったときには何も見えなかったが。
(気のせいか? 最近、夜もよく寝てなかったしな。疲れてるんだ)
龍郎は部屋に戻ると、急いで着替えて外に出た。
「おーい。清美さん。ヨナタン。出かけよう」
玄関口から声をかけるものの、返事がない。いったい、どうしたというのか。清美は買い物ごときで化粧をするような、できた女ではないのだが。
「おーい。清美さん?」
すると、奥から悲鳴が聞こえた。
「清美さん!」
何やら怪しい気配がする。
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