第2話 別れのプラハ その三
*
どこからか音楽が聞こえてくる。ヴァイオリンのようだ。誰かが奏でているのだろうか。なんだか、とても切ないメロディー。
午睡から覚めて、青蘭はベッドをおりた。カーテンを閉めているせいで、時間の経過がわかりにくい。それでも、室内の暗さから、もう夕刻近いのだと感じた。
昨日のアレは幻だろうか?
青蘭を呼んでいた。
でも、その人はすでにこの世にはいないはずだ。異次元へつれさられたのだから、生きていないも同然。
(龍郎さんは僕をすてたんだよ。もう帰ってこない)
ただそれだけの痛みを、どうしても飲みこめない。幻を見ることすら、つらい。
「青蘭。起きたのか」
扉がひらいて、フレデリック神父が入ってくる。
「もう夕方だ。キレイな夕日だよ。カーテンを閉めきってないで、外をながめたら?」
そう言って、神父は閉ざしたままのとばりをひらこうとした。
「やめて!」
思わず、青蘭は叫ぶ。
外を見ることが怖かった。そこに幻を見るから、ではない。幻が消えているのを見る。それが怖いのだ。幻覚にすぎなかったと認めることになるから……。
だが、青蘭の制止を聞かず、神父はカーテンをあけた。とたんに黄金細工のような夕焼けが室内をさんぜんと埋めつくす。
見たくないのに、見てしまう。やはり、そこに龍郎の姿はなかった。青蘭の見た幻だったのだろう。あれから丸一日たっている。たとえ本物でも、すでにいるはずもないのだが。
もしも、そこにいてくれたら、青蘭はとびおりてでも会いにいったかもしれない。でも、いない。この厳然たる事実に、青蘭は打ちのめされた。こみあげる
「青蘭」
神父の手が背中にかかる。
快楽の玉の脈動。
唇をあわせると、言葉にならないさまざまな感情が吸いとられていく。
そうしていると、なぜだろう。だんだん、何もかもがどうでもよくなってくる。ずっと絶望し続けることは人にはできない。龍郎はいなくなった。青蘭をすてていった。そばにいるのはフレデリックだ。もう、この人でいいじゃないかと心の声がささやく。少なくとも、ミカエルのカケラを持っているのだから。
「青蘭。君を愛している」
「あなたが好きなのは僕の父だよね? 父の面影を僕に見てるだけじゃないの?」
「最初はね。そうだった。でも、今は違う。星流はこんなに泣き虫じゃなかったよ」
優しくされるのは心地よい。
ツラさや悲しみの限界を超えて、不感症になった心を包みこむ。少しだけ気が楽になった。
どうせ、人間なんて誰のことも信用できないのだ。そんなの最初からわかりきっていた。ほんのつかのま、錯覚を起こしていただけ。以前の自分に戻ったのだ。
「青蘭。散歩に行こう。この時間はプラハ城がとてもキレイだ」
「……うん」
青蘭は誘われるままに、部屋を出た。本部のなかは何やらバタバタしているが、青蘭には関係ないことだ。
外へ出ると、細い路地が茜色に染まり、街中が金箔で飾られているかのようだ。錬金術で造られた魔法の都市に見える。
「ずいぶん前に、ここで暮らしていたような気がする」
「そうかもしれないね。今の君ではなかったかもしれないが」
「僕は何もおぼえてないんだ。何度も生まれ変わったはずだけど。ただ……」
「ただ?」
「……なんでもない」
ただ、とても長いときをさまよっていたこと、そして、どうしようもなく、かつて愛していた片割れへの想いだけが強烈にしみついている。
「もう疲れた。報われないのなら、消えてしまいたい」
神父は何も言わずに、青蘭の肩を抱きよせた。
二つの玉の共鳴が少しだけ強まった。トクトクと小鳥の心臓のように脈打つ。
どこからか、また音楽が聞こえた。空虚な気分にしみいる。
川のせせらぎ。
ゆったりと流れる時間。
「もう忘れるよ。過去を思っても悲しくなるだけだ。あの人はミカエルじゃなかった。だから、行ってしまった。そういうことなんだね」
「そう。それがいい」
だが、そう話していたやさき、信じられないことが起きた。目の前に龍郎が立っている。
「青蘭!」
まっすぐにかけよってくる。
神父に肩を抱かれた青蘭を見て、かすかに苦しげな顔をした。でも、すぐに笑顔になった。
「……やっぱり、フレデリックさんがミカエルだったんだね。よかった。それなら、君も……」
龍郎は
「龍郎さ——」
「君の幸せをずっと祈っているよ」
どうやってルリム=シャイコースの世界をぬけだしたのか。神父がミカエルとはどういうことなのか。あるいは龍郎の本心。いろいろ聞きたいことはあった。が、その時間は残されていなかった。
龍郎は神父の左手を右手でつかんだ。いささか、乱暴に。そこに抑えきれない彼の本心が隠れているような気がした。
「苦痛の玉をあなたに譲る」
その瞬間、ハレーションを起こしたような数々のライトアップも、夕焼けの名残りのひとすじも、すべて圧して、金色の炎が燃えあがった。火柱のように、天空のはるか彼方までつきぬける。
苦痛の玉の持ちぬしが変わった。
光が薄れたとき、青蘭と龍郎のあいだにあった共鳴は完全に絶たれていた。龍郎はただの人になったのだ。
(行ってしまう……)
カレル橋の透きとおる夕景に溶ける笑みで、龍郎は一度、うなずいた。
「さよなら。青蘭」
「待って。龍郎さん!」
青蘭の手をフレデリックがつかんで、ひきとめる。全身が沸騰するほどのすさまじい同調が、青蘭のすべての思考を奪う。
苦痛の玉が完全になった。
骨の髄にまで、歌声が響きわたる。入江で歌った、あの
(ミカエル……なの?)
その共鳴力に、青蘭は抗うことができなかった。
了
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