第1話 脱走 その四
マルコシアスは堕天使。元天使だ。飛翔の能力は高い。
フサッグァはそのマルコシアスに劣らぬ速度で迫る。
飛ぶことに特化した敵というより、この空間がまだ彼らの世界に属しているからのようだ。この世界ではすべてにおいて、彼らのほうが有利なのだ。
マルコシアスは言った。
「龍郎。ヤツを倒せ。ここから脱出するためには、そうするしかない」
「ルリムが怒るだろうな」
「邪神の機嫌をとりたいのか?」
「そうじゃない。でも……」
マルコシアスにとっては、ルリムはルリム=シャイコースの女王以外の何者でもないのだろう。しかし、龍郎には彼女がどうしても、人に近しい何かであるように思える。
すると、龍郎のためらいを察したように、フサッグァは突進してくる。マルコシアスが急降下してよける。が、風圧が肌にあたったとたん、氷雪をかぶったかのように痛いほどの冷気を感じた。
(なんだ? こいつ。炎じゃないのか? 冷たい)
数メートル離れていたのに、この寒気だ。ちょくせつ体にふれていれば、一瞬で皮膚が凍りついていたかもしれない。
危険な相手だ。
龍郎は決心して、右手に退魔の剣を呼びだした。戦うしかない。
ゆがんだ宇宙空間のような暗闇を、退魔の剣の光が切りさく。抜刀した瞬間、フサッグァの姿が大きく変形する。人形を保てなくなり、完全な球体になった。青い炎に包まれた球だ。中心に一段階、濃い色の円があるせいで、巨大な目玉にも見える。
(これが、フサッグァの正体か?)
なんだか、見たことがある。何かに似ている。
フサッグァは氷の炎をムチのように長く伸ばし、龍郎の全身をからめとろうとする。剣でふりはらうと、伸縮する炎の舌が氷塊となってくずれた。ボロボロと光のなかに溶ける。やはり、龍郎が本気を出せば、負ける相手ではない。
龍郎は左手でマルコシアスの首のつけねをつかみ、右手を精一杯つきだす。マルコシアスがタイミングをあわせて、右に旋回した。フサッグァの青い中心部に切っ先が届く。そのままつらぬけば、おそらく、フサッグァは消滅していた。
が——
「待って! 龍郎」
ルリムだ。追ってきたのだ。ルリムは自身が次元を翔ぶ能力者だ。フサッグァの前にとびだしてくる。
あわてて、龍郎は剣をひいた。
「龍郎。フサッグァを殺すと火の精が暴走するわ。それでもいいの?」
「おれを行かせてくれ。ルリム。頼む」
話しているすきに、フサッグァは去っていった。龍郎とまともにやりあうのは危険だと算段したのだろう。
「……龍郎。わたしといるほうが、あなたのためよ? 生贄になんて、わたしがさせないから」
「すまない。おれは行かなくちゃいけないんだ」
「ゆるさないから」
だが、ルリムはそれ以上、追ってはこなかった。
マルコシアスが羽ばたくたびに、またたくまにその姿は遠くなる。ほんとうは逃がしてくれるつもりだったんじゃないかと、龍郎は考える。
「龍郎。もうすぐ人間界へつくぞ」
「ああ」
次の瞬間、次元をつきやぶる感覚とともに、龍郎は落ちた。
*
気がつくと、いずことも知れぬ西洋の丘の上にころがっていた。眺望がとにかく美しい。石造りの街並みが一望にできる。
「……どこ、ここ?」
「プラハだ」
「プラハ? なんで、そんなとこに?」
「青蘭がいる」
これって密入国だろうか、なんて案じていた龍郎だが、とたんにそんな心配は頭からふっとんだ。
「青蘭がいるって?」
「うむ。この街のどこかにガブリエルたちの本拠地がある」
「新薔薇十字教団か」
プラハはかつて錬金術の盛んな都市だった。大天使がリーダーをつとめる神々の使徒たちのアジトにはふさわしい。
「どこにいるんだ? 今すぐ会いたい!」
龍郎は問い正した。
が、マルコシアスは急速に小さくなり、背中の翼を隠して、ヘッヘと舌をたらす。やや大きめではあるものの、そうすると黒い毛並みのシベリアンハスキーにしか見えない。龍郎の質問にも答えないし、どうしたんだろうと思っていると、散歩中の老夫婦がマルチーズをつれて近づいてきた。地面にころがる龍郎を見ておどろいているので、あわててマルコシアスとじゃれているふりをした。ただの愛犬家とみなしたのか、老夫婦は安心したようすで去っていく。
「それで、青蘭の居場所は?」
「それは……」
言いかけて、マルコシアスはまた黙りこむ。今度は若いカップルだ。デイパックを背負い、観光客らしいいでたち。龍郎はまたマルコシアスの背中をなでた。
カップルは犬好きだった。ひとしきり、外国語で何やら話しかけてきたが、言葉が通じないとわかると、マルコシアスの頭をなでてから、これも立ち去った。あの二人は自分たちが名だたる魔王の頭をなでたなんて、一生、知りもしないだろう。
「これじゃ話にならないよ。マルコシアス」
「ならば、これならいいだろう」
とつぜん、マルコシアスの姿が縦に伸びた。黒髪に褐色の肌の美青年に変身する。アラブ系の白い服をまとっている。
「……人間に化けられたのか」
「うむ」
「なんで今までそう言ってくれなかったんだ?」
「聞かなかっただろう?」
「てっきり犬にしかなれないんだと……」
しかし、そんなことを話している場合ではない。
「青蘭のところへつれていってくれ」
「よかろう」
マルコシアスが龍郎の腕をつかんだ。周囲が暗転し、また空間を移動する感覚に包まれた。
了
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