第1話 脱走 その三



 理由はわからない。

 我らが王というのが誰をさすのかも。ラグナロクとは何のことなのかも。


 だが、ここにいれば、龍郎は生贄にされる。

 清美もせかしていたし、とにかく今すぐ逃げださなければ。


 龍郎はルリムたちが話している場所へとびだしていった。ルリムと客、両方と戦闘になれば、圧倒的に龍郎が不利だ。とは言え、ルリムがいきなり、龍郎に襲いかかってくるとは思えなかった。


「ルリム! おれを生贄にするって?」


 とつぜん現れて問いつめると、ルリムは言葉をつまらせた。


「誰かを蘇らせるために、おれの命が必要なのか?」

「そうじゃないのよ。わたしは、そんなつもりで、あなたをつれてきたわけじゃないわ」


 アリの巣を思わせる丸い空間のなかに、円筒形のテーブルと椅子があり、そこに男がすわっている。ルリムがフサッグァと呼んだのは、この男のことだろう。


 ひとめで人間じゃないことはわかった。おおよそ人形ひとがたをしてはいるのだが、何しろ、全身に炎をまとっている。青白い炎だ。ガスバーナーの色。肌色も氷のように、なかば透けていた。やはり、ルリムの悪魔の仲間なのだ。


(フサッグァか。クトゥルフの邪神っぽい名前だな。あとで穂村先生に聞いてみよう)


 ただし、今ここから無事に逃げだせれば、だ。


(マルコシアス。頼む。早く来てくれ!)


 他力本願でしか逃亡もできない自分が不甲斐ない。悪魔を倒すことはできても、次元を翔ぶ力は龍郎にはない。


「ルリム。おれはおれ自身を引き渡すと言った。でも、君がおれを生贄にするつもりなら、断固として主張する」

「だから、違うって言ってるじゃない」

「そうじゃない。おれ自身のなかには、おれの命もふくまれているだろう。でも、君は三択を迫った。一つは快楽の玉。二つめは苦痛の玉。三つめがおれだ。つまり、と苦痛の玉は別の商品なわけだ。なのに、君はおれを苦痛の玉ごと、生贄にしようとしている。その権利は君にはない。そうだろ? 苦痛の玉がおれのなかにあるうちは、君はおれを殺すことはできないし、おれを自由にあつかうこともできない」

「…………」


 ルリムは返事に窮した。

 龍郎だって一年に渡って多くの悪魔と対峙してきたのだ。悪魔をやりこめる方法だって、多少は心得ていた。悪魔は人間をだますことはできる。だが、契約内容をたがえることは、なぜかできない。そういう生き物だ。


「ルリム。君が苦痛の玉ごと、おれをつれてきたのは契約違反だ。おれはこれから、苦痛の玉を正当な持ちぬしに返しに行こうと思う。そのあとでなら、おれをどうしようと君の勝手だ」


 すると、そばで見ていたフサッグァが笑った。グググと喉の奥を鳴らすような変な笑い声だ。人間の形をしているが、これも邪神ならば本来の姿は別のものなのだろう。


「ただの人にすぎないおまえになど、なんの価値があると言うのだ? 苦痛の玉があればこその取り引きだろうに」


 そんなことはわかっている。それこそ悪魔が人間をだますときに使う常套手段だということは。それでも、契約には明言されていない。そこが肝要だ。


「それなら最初から二択にしておくべきだ。わざわざ三択にして苦痛の玉とおれをわけたのは、そっちのミスだろう?」


 フサッグァは一瞬、輪郭が丸くぼける。怒ったようだ。


「ルリム。さっさとこの男を殺せ。あるいは右腕を切り落とし、わが王に捧げよ」


 ルリムはためらっている。

 ルリムの出かたによっては、イヤでも戦わなくてはならなくなる。


 龍郎はルリムを見つめた。彼女と初めて会ったときのこと、そして幼なじみの瑠璃として再会したときのことを思いだす。ルリムと戦う覚悟が自分にあるだろうかと、かんがみる。


 そのとき、龍郎は羽音を聞いた。翼が風を切り、力強く羽ばたく音を。


 壁がガラス細工のようにくだけた。背中に翼のある巨大な黒い狼が現れる。マルコシアスだ。


 龍郎はマルコシアスの背にとびついた。


「ルリム! 必ず、苦痛の玉を渡したら、帰ってくる。それでもいいと君が言うなら」

「龍郎! 待って。行ってはダメ!」


 ひきとめるルリムの叫びは聞こえたが、すでにマルコシアスは飛び立っている。割れた空間の穴にとびこむと、異次元を移動するときの感覚に襲われた。


「ありがとう。マルコシアス」

「おまえのためではない」

「わかってる。青蘭のためだろう? 苦痛の玉を青蘭に譲るよ」


 龍郎は言ったが、マルコシアスはチラリと含みのある視線をなげてきた。


「龍郎。わかっているのか? 今、苦痛の玉を渡せば、青蘭は存在しなくなるぞ?」

「青蘭が……それは、アスモデウスにかえるということだろう?」

「まあ、そうだ」

「青蘭はアスモデウスの魂の生まれ変わりだ。両者は同じ存在だろう?」

「それはどうかな」

「どういう意味だ?」

「人と天使は異なるものだ。たとえ魂は同一だとしても」

「…………」


 それでも、青蘭が望んでいる。青蘭が天使に戻りたがっている。龍郎にはその願いを叶えてあげることしかできない。


「それに、天使の卵から生まれるのは、両親の魂のうち一方だ。再生するのは、ミカエルのほうかもしれない。そうなれば、アスモデウスは消える」


 それについては、龍郎はあまり心配していなかった。アンドロマリウスの計略で、確実にアスモデウスが再生するように細工をほどこされているだろうと考えていた。


「マルコシアスは、アスモデウスが復活することを望んでいるんだろう?」

「もちろん。青蘭が望むのなら」

「じゃあ、おれたちの目的はいっしょだよ」


 きっと、だからこそマルコシアスは龍郎に力を貸してくれるのだろう。もしも、青蘭の意にそわぬことを龍郎がし始めれば、すぐにも敵対関係になるに違いない。


 異相の空間を縫うように、マルコシアスは飛んでいく。

 しかし、背後から何かが追ってくる。ルリムだろうか。

 ふりかえると、青い炎が渦巻きながら近づいていた。


「フサッグァだ!」

「火の精霊の長だな」と、マルコシアスは言う。

「火の精?」

「ファイヤー・ヴァンピールズ。アフーム=ザーに使える奉仕種族だ」


 くわしく聞いているヒマはなかった。フサッグァは炎の矢となって、みるみるうちに迫ってくる。

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