第32話 狂気の国へは行かせない

 お茶とお菓子をトレイに乗せて戻ってきたマリアベルは、部屋の扉が開いていることを不審に思い、床にトレイをそっと置くと音を立てずに部屋に近づく。そろりと慎重に部屋を覗き込み、その光景に目を見張った。


 床に倒れた血まみれの女性――そして今まさにアンジェラに手をのばす、焦げ茶色の髪の男。

 マリアベルは迷わず部屋の中へ飛び込み、アンジェラの元へ駆け寄ろうとした。マリアベルの位置からは、ランドルフの剣が見えなかったのである。


「アンジェラ!」

「! マリー、駄目……!」


 ひゅっ、と風を切る音がして、マリアベルは後ろへ飛び退いた。しかし少しばかりタイミングが悪く、マリアベルの胸元が切り裂かれ血が滲んだ。


「あっ……!」

「マリー!」


 膝をつくマリアベルへ手を伸ばすアンジェラの身体を、ランドルフは片腕で抱きしめることで制した。ざわ、と悪寒を感じたアンジェラは必死に暴れる。


「離して! 離しなさいランドルフ! マリーが、……っマリー!」

「気に食わないなぁ、本当に」


 ランドルフは剣をもう一度振って、マリアベルに向けた。マリアベルは胸元を押さえ、浅い呼吸を繰り返しランドルフを睨む。暗い瞳に宿る明確な憎悪に、奥歯を強く噛んだ。

 この男は危険だと、本能が伝えている。


「きみが名を呼ぶ全ての存在が邪魔だ。女も男も関係ない。きみの声は僕の名だけを紡げばいいんだよ」

「何をふざけたことを……!」

「ふざけている? 僕が? やだな、アンジェラ。きみ、僕の愛を疑っているの? じゃあ……ふざけているわけじゃないって、証明しようか」


 剣を持つ腕に力が入り、彼がもう一度マリアベルに攻撃をしかける気だと気づいたアンジェラは、両腕を伸ばしランドルフの腕を掴んだ。ランドルフの瞳がアンジェラへ向けられる。


「やめなさいと言ってるの! マリーを傷つけないで!」


 ちっ、と小さく舌打ちをして、ランドルフは静かに剣を下ろした。アンジェラがほっと気を緩めた次の瞬間、剣の柄をアンジェラの腹部へ打ち込む。


「っ……あ、……っ」

「アンジェラ!」


 気を失い、がくん、と項垂れたアンジェラの身体を抱きしめたランドルフはうっとりとした表情で小さく笑うと、アンジェラの名を呼んだマリアベルを冷たい眼差しで一瞥して言った。


「彼女に免じて、今日は見逃してあげるよ。ただ……また僕とアンジェラの邪魔をするようなことがあったら……そのときは容赦しない」


 ばたばたと廊下を慌てて走る音が聞こえ、ランドルフは瞳を細めて眉を寄せる。それからすぐにマリアベルに背を向けて、宿屋の窓から外へと飛び降りた。腕にしっかりと、アンジェラの身体を抱えたままで。


「おい、二人共! 一体何が……」


 アーノルドとローレンスが部屋にたどり着いたとき。もうそこに、アンジェラの姿はなく。

 あるのは床に伏せた血まみれの女性と、座り込んだマリアベルの姿。二人は驚愕に目を見開き、言葉を失う。何があったのか、何が起こったのか――決して良いことではないのは明らかで。


 ゆっくりとマリアベルが振り向き、アーノルドたちを見上げる。

 気丈なはずの彼女が唇を震わせ、ぼろぼろと涙を零していた。


「兄様……ローレンス……アンジェラが……アンジェラが、……っランドルフ王子に……あの男に、攫われてしまいましたの!」


 二人はすぐにマリアベルに駆け寄り、その身体を支える。彼女が負った傷に気づいたローレンスははっと目を見開き、マリアベルの両肩を掴む。


「マリアベル、お前も怪我してるじゃないか!」

「わた、わたくし、っ……わたくしのせいです、わたくしがアンジェラから離れてしまったから……わたくしのせいでアンジェラが!」


 何度も繰り返ししゃくり上げて泣きわめく姿は、いつもの彼女よりもずっと幼く見えた。ローレンスは唇を噛み、マリアベルをぎゅうと抱きしめ背中を撫でた。


「大丈夫、……大丈夫だ、マリアベル。悪いのはランドルフのやつだ。気をしっかり持って」


 ローレンスがマリアベルを宥めているのを見ると、アーノルドは幾分か冷静になれた。視線を巡らせ、床に伏せた女性を見る。ぼろぼろのドレスに汚れた赤い髪、随分痩せこけてしまっているが、アーノルドはその女性に見覚えがあった。


「シンシア嬢か……?」

「! まさか……姉さんの目の前で、彼女を……?」


 マリアベルにつけられた傷から考えて、シンシアを殺したのは間違いなくランドルフであると確信する。

 彼女が罪人であるのは間違いなく、処刑に値する存在なのはわかっているが――まさか自らの手で彼女を殺すだなんて。

 一体何の目的があって、と考えたアーノルドはすぐに首を振り考えを切り替えた。彼の目的はアンジェラ以外にない。アンジェラを取り戻すべく、シンシアを利用した。なぜ手をかけたのかまではわからないが、はっきり言えるのは。


「あの男は、危険ですわ……!」


 マリアベルがローレンスの腕の中で言う。


「アンジェラを手に入れるためなら、人を殺すことだって何とも思っていない……あんな男のそばにアンジェラを置いておいたら、……!」


 アンジェラがまた、狂気の国に連れ込まれてしまうかもしれない。

 最悪の展開に、アーノルドの眉は釣り上がった。ローレンスも自然に、表情が険しくなる。


「置いておかないさ」


 彼女を散々傷つけておいて、彼女を理解しようともしないで。自分の想いだけを一方的にぶつけて、アンジェラを閉じ込めるつもりなのか。

 彼女が望んでいるのは依存するだけの愛ではない。共に並んで歩いて行ける思いやりを持った愛だ。

 ランドルフの愛は、ただアンジェラを傷つけるだけ。例えアンジェラが自分を選ばなくとも、ランドルフのそばに置いておくわけにはいかない。アーノルドがずっと変わらず願うのは彼女の幸せ、なのだから。


 アーノルドはゆっくりと深呼吸をして、事切れたシンシアのそばに歩み寄る。自分が汚れるのも気にせずに、シンシアの身体を抱き上げた。


「マリアベル、傷は平気か?」

「咄嗟に避けたつもりが、掠ってしまいましたの。大した傷ではないですわ」

「そうか。どちらにしろ置いていくわけにはいかないから、少し無理をさせてしまうが……――ローレンス、転移石を」


 あぁ、と短く返事をして、ローレンスは肌見放さず持っていた転移石を取り出す。もう片方の腕はマリアベルを支えたまま、ゆっくりと立ち上がった。

 恐らくランドルフは、アンジェラをクラウディア城へ連れ込むはずだ。だとしたら、この状態のまま乗り込んでもアンジェラを救出することは出来ない。あの件があってからアーノルドたちは、クラウディア国王にとっても煩わしい存在だ。

 クラウディア国において絶大なる力を持った存在に抗うために必要なのは、さらなる力。


「ドラグニアへ、エスメラルダ王妃の力を借りよう。シンシア嬢の亡骸も届けなければ」


 三人はこくりと頷いて、転移石の光に身を委ねた。

 アーノルドとて、竜族の能力を用いるのは本意ではない。その炎は決して、人を傷つけるためにあるものではないのだ。竜族に与えられた加護は、聖なるもの。ゆえに人を傷つければ逆に、自分が傷ついてしまう。

 だから、炎の力は使わない。使うのはあくまで、「ドラグニア国」の「王妃」の力。クラウディア国王が恐れるだけの、気概。

 本来なら自分の国の力を使うべきなのだろうが、今はもうソール国に戻って兵を率いるだけの時間はない。頼れるのはアンジェラがきっかけとなり結んだ縁、それのみだ。




 必ず。

 必ずアンジェラを、助け出す。彼女が幸せになるのでなければ、何度だってその場所から連れ出してやるのだ。


 彼女が二度と、狂気の国に取り込まれてしまわぬように。

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