第31話 狂気の王子は最愛の君をみつけた
ドラグニアを出てから数日のあと、クラウディアとソールの国境近く。
アーノルドたち一行はそこの街で休憩を取ることにした。馬車を止めて何度か休憩は取っていたが、宿で本格的に身体を休めるのは初めてである。主には馭者であるマリアベルのためであり、今日一日は身体を休めることになっていた。
宿を取り、女性と男性とで別れて部屋を取る。日は傾いてきているものの、まだ明るさのある時間帯だった。
「さすがに何日も馬を走らせ続けるのは疲れますわ~」
女性二人に用意された部屋でマリアベルは、すぐにベッドに飛び込んでいた。はー、と息をついて、ごろんと寝転がる。
淑女としてあるまじき姿ではあるが、それを咎めるものはおらず。アンジェラも微笑ましげに笑って、マリアベルに声をかけた。
「お疲れ様、マリー。あなたにばかり負担をかけてごめんなさいね。私も馭者の作法を習っておけばよかったわ……今日はゆっくり休んでちょうだい」
「気になさらないで、アンジェラ。全然休憩がなかったわけでもないし、それにわたくしが好きでやっているのですもの……でも今日はお言葉に甘えさせていただきますわ」
「えぇ、それがいいわ。何か軽く食べるものをいただいてくるわね、ロンたちもこちらに呼ぼうかしら」
アンジェラが言うと、マリアベルは勢い良く身体を起こし、きらりと瞳を輝かせた。
「いいえ、アンジェラ。今日は二人きりでお話しましょう! 女同士でしかお話出来ないこともありますでしょ? それと馬車の中で何を話していたのかも気になりますし!」
好奇心に満ちたその表情にアンジェラは、ぱちぱち、と大きく瞬きをして。どうやら「女子会」がしたいらしいマリアベルの意を汲むと、くすくすと笑って頷いた。
「そういう日があってもいいわね。わかったわ、今日は私とマリーの二人だけね」
「やりましたわ! あっ、でしたらお待ちになって、アンジェラ! お菓子とお茶はわたくしがご用意いたします! ついでに兄様たちに邪魔をしないよう釘を刺して参りますから!」
先程まで「疲れますわ~」とベッドでごろごろしていた様子はどこへやら、マリアベルは素早く立ち上がってアンジェラの元まで歩み寄ると、更に先の扉の前まで向かい振り返った。
「ま、マリー? ゆっくりしていていいのよ? 疲れているでしょう?」
「アンジェラとゆっくりお話するための準備はしっかりしておきませんと! 兄様は何かにつけてすぐアンジェラに会おうとするのですから」
マリアベルの言葉に、アンジェラは肩を竦めて頬を薄く染めた。止めても聞かないと判断し、マリアベルが部屋を出るのを止めなかった。ふー、と息を吐き出して胸元に手を添えると、鼓動が少しばかり速く鳴っていた。
「惚れっぽい質ではないのだけれど……」
熱くなる頬に手を触れつつ、アンジェラは呟く。
一目惚れをしたのだと告げたアーノルドは、あれから本当にわかりやすく好意を示すようになっていた。言葉でも、表情でも。何より穏やかに細められた紫紺の瞳から、溢れるような愛情を感じていた。隠すこともなく、好きで堪らないという感情を乗せた瞳はどうしたって、アンジェラの心を震わせる。
正気を失っていたときに出会った彼は、始めからとても優しいひとだった。要領を得ない言葉を繰り返すアンジェラの声をしっかりと聞いて、急くことも、反発することもなく受け入れて。その心を治すためなら――と、自らクラウディア城まで赴いた。今思うとあのときは、まさか彼が自分を好いているなどとは微塵も考えていなかった。
とても優しい、親切なひとだと。
けれどそれは、彼を知り始めてからも変わらない印象だった。告白に動揺したけれど、好意を持たれることに不快感はない。何より彼の紫紺の瞳は嘘を言っていなかった。遠慮がちに、だけれど真摯に。このところは彼のその、深くて大きな愛情に酷く戸惑ってばかりだったが、それもまた不快なことはなかった。
彼の手を取れば、幸せになれるのではないか。
彼となら、共に歩いて行けるのではないか。
そんな考えが過るものの、アンジェラはまだ答えを出せないでいる。
ランドルフへの愛情が残っているからではない。彼への想いはあのときはっきりと、砕けて散った。未練はないけれど、心の整理がしっかりついたわけではない。アンジェラの心は未だどこかで、人を強く想うことに恐怖している。
向けられた愛情が、ある日突然なくなったら? また化け物と突き放されたら?
アーノルドがそんなことをするようには思えないが、小さな疑心はずっと彼女の心に根付いている。また心を壊してしまったら……そんなふうに思ってしまうのだ。
ランドルフとアーノルドは違う。もちろんそれはわかっている。
「……彼に、話してみようかしら……」
自分の想いを素直に口にしてみたら、状況は変わるだろうか。アーノルドはどんな言葉を返してくれるだろうか。
アンジェラははっと、自分がアーノルドのことばかりを考えていることに気づいて赤面する。ふるふると頭を振って、ゆっくりと深呼吸をした。
そのときふと、扉の開く音が聞こえる。マリアベルが戻ってきたのだと思ったアンジェラは笑顔で振り向いた。
けれどその笑顔は一瞬で、凍りついた。
「――なぜ、あなたが……」
ぼろぼろのドレスに、汚れた髪。乾いた唇は皮が剥けて、落ち窪んだ目には光がない。最後に見た彼女の姿とは全く異なるいで立ちにアンジェラは、口元を押さえて表情を歪めた。
「見つけた、わ……アンジェラ・ヴァレンタイン……」
シンシア・ビアズリー。クラウディア国の牢に繋がれていたはずの彼女が、アンジェラの目の前に立っていた。
アンジェラは震える手をぎゅっと握り締め眉を釣り上げると、強い眼差しでシンシアを睨みつける。もう心を乱さないと決めていた。
「シンシア。なぜあなたがここにいるの?」
「あんたを探していたのよ、アンジェラ。本当はソール国まで行くつもりだったけど、手間が省けたわ」
笑ったつもりだったであろうシンシアの表情は、ほとんど動いていなかった。じり、とアンジェラに歩み寄り、かと思えばどさりと膝をついて項垂れた。
「ねぇ……頼みが、あるの……」
「……なんですって?」
「あんたに、頼みが……。……わかってる、わかってるわ、どの権利があってあんたに頼み事なんか出来るのかって……! でも、でももう、限界なのよ! 私はっ、私はもう、あいつの狂気に耐えられない!」
掠れて震えた声には、全く覇気がなかった。アンジェラは訝しげに眉を潜め、シンシアの声を聞く。
「おねがい、おねがいよアンジェラ、あいつと、……ランドルフと会ってちょうだい! そうしなければ私は……!」
ぴくりと、アンジェラの眉が動く。シンシアの言葉に彼女がここにいる理由を察し、金色の瞳に怒りを滲ませた。拳を強く握り締め、一度強く唇を噛んだ。
「ランドルフに頼まれたのね。私を、連れ戻せと」
「えぇ、えぇそうよ! あいつはまだあんたを愛しているの! あんたを連れ戻すことが出来たらあいつは、私を開放してくれると言ったわ!」
「私を愛して? だとしたらここにいるのはあなたじゃなくてランドルフであるべきだわ。そんな姿になってしまったあなたを利用して、私の同情心を誘おうとしたのね」
淡々としたアンジェラの言葉に、シンシアの顔色が一層悪くなる。ひっ、ひっ、と喉奥から掠れた音が漏れ、光のない金色の瞳は恐怖と絶望に見開かれていた。
「あ、アンジェラ……私のしたことは許されることではないわ、あんたにしたことがどれほどの罪かも理解している! だからこれが終わったら私は、罪を償うの! だ、だから、……だから、お願い……どうか……」
「シンシア・ビアズリー。言っていることがちぐはぐよ。――まるで、あのときの私のようね」
愛するひとに突き放されて心を壊した自分のように。彼女の心も、壊れてしまっているのだろう。
だけれど彼女に同情は出来ない。それは決して、ランドルフを奪ったからではなく。
「あなたが償うのは私への罪ではないわ。何の落ち度もない住民たちの命を奪った罪よ」
シンシアの表情が強張った。爪が折れてしまっている指先を地面につけて、肩をがたがたと震わせる。
どうして自分がこんな目に。自分はただ、幸せになりたかっただけなのに。裕福なひとの元に嫁いで、毎日美味しいものを食べて、好きな服を着て……そんな生活を送りたかっただけなのに。
なぜ自分とアンジェラには、こうも差があるのか。
アンジェラは誰からも愛されて幸せなのに、自分は、どうして……。
ゆっくりと目を閉じたアンジェラは、同じようにゆっくりと目を開いてシンシアに向き直る。
「シンシア。私はエスメラルダ王妃から、あなたを見つけることがあったら強制的に国に戻すようにと言われてる。それはあなたが今のように、クラウディア国に利用されないようにするためよ」
「……え?」
「クラウディア国が単純に、あなたを処刑するのであればそれを止めることはできない。けれどそうはせず、クラウディア国がどんな形であれあなたを利用するつもりであるなら、あなたの罪はエスメラルダ王妃が裁くと、そう仰っていた」
シンシアは呆然とアンジェラを見上げていた。
とっくに見放されたと、国に捨てられたと思っていた。自分の存在はもう、王妃の関与するものではないのだと。
「ロンが転移石を持ってるわ。それを使って国に戻り、エスメラルダ王妃のお言葉を聞きなさい」
光のない金色の瞳から、涙が溢れた。失われた命を思えば泣く権利などない。だがシンシアにとってアンジェラの言葉は救いだった。
あの王子の狂気から逃れられる、唯一の。
国に戻っても処刑は避けられないだろう。だがそれでも、あの狂気を見続けるくらいなら。恐ろしい笑顔を見るくらいなら。自国の王妃の手に委ねたほうが、ずっといい。
「……アンジェラ……ごめんなさい、本当に……許されることではないけど、私……」
――刹那。
アンジェラの瞳が見開かれ、シンシアの背後を見る。シンシアが何事かと振り向くより先に、彼女は背に焼けるような感覚を覚えた。
口からごぽ、と血が溢れ、けれどシンシアは自分の身に何が起こったのか理解できなかった。
ぐらりと身体が傾き、シンシアの身体が床に倒れる。その背中には大きな傷が刻まれていた。――ランドルフの振るった剣によって。
「シンシア……!」
シンシアの目にはもう、アンジェラの姿は見えていない。自分を呼ぶ悲痛な叫びが聞こえただけだった。
「あぁ、本当に……ゴミクズは最後までゴミクズだった」
アンジェラは信じられないものを見る目で、ランドルフを見つめた。血のついた剣を手に、何の罪悪感もない表情で笑う彼の様子が、心底信じられなかった。
「アンジェラ。――僕の、アンジェラ。さぁ、おいで。一緒に帰ろう」
背筋に冷たいものが伝うのを感じて、アンジェラは息を詰める。
空色の瞳に宿る感情が、今はもう愛であるとは思えなかった。
愛とは、もっと柔らかくて暖かな。
あの紫紺の瞳が見せてくれるものこそ――……。
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