第10話 進行した心の病
アーノルドはその日、朝早くからで出かけていた。
目的は、アンジェラの服だ。女将の古着も決して悪くはないが、彼女のためにもっと綺麗な服を贈りたかった。
失恋したとは言え、その恋心がなくなったわけではない。彼女に贈り物をしたい気持ちはあるし、それで彼女に喜んでもらえたら、とも思う。それが迷惑だと思われたら辛いが、覚悟の上だ。今自分に出来ることはこの程度だろうと、アーノルドは小さく笑った。
都市よりも質は劣るが、この街で一番の仕立て屋の元でドレスを買う。贈り物だと伝えると、ラッピングまでしてくれた。
アンジェラはどんな反応をするだろうか――少しばかり浮かれた気持ちで、宿へと戻る。女将に挨拶をして、アンジェラたちのいる部屋まで向かった。
トントン、とノックして、静かに扉を開く。部屋の中の暗い空気に、アーノルドは微かに眉を潜めた。
「……どうか、したのか?」
声に、マリアベルがはっと顔を上げる。泣きそうにも見える妹の顔に、嫌な予感を覚える。
「兄様、それが……」
マリアベルの視線が、ベッドの上で身体を起こしているアンジェラに向けられる。その瞳を見て、アーノルドは目を見開いた。
昨日確かに正気に戻っていたはずのその瞳が、再び光を失い暗く濁っている。宝石のような輝きを持っているはずの金色は、今はまるで傷ついたガラス玉のようだった。
「……ロン。どなた、かしら」
「え……」
アンジェラはアーノルドの顔を見ると、弟のローレンスへそう訪ねた。ローレンスは眉を下げ、口元に笑みを携えて答える。
「姉さん、彼はアーノルドだよ。おれの友だちで、マリアベルの兄。昨日説明しただろ?」
「……そう。アーノルド様……えぇ、そうね……マリアベルの、兄上……」
酷くぎこちない口ぶりで答える。マリアベルはアーノルドに近づくと、小さな声で話し始めた。
「ローレンスが言うには、朝起きたときからこんな調子だと……わたくしのことも忘れていて、なぜここにいるのかもよくわかっていないみたいなんですの。いくつか言葉をかけてみたのだけれど、どれも曖昧で要領を得ないというか……全てがちぐはぐのような、そんな感じがしますの」
アーノルドはアンジェラを見つめて、口元を引き締めた。ゆっくりと歩み寄り、胸元に手を当てて会釈をする。
「アーノルド・ラインハルト。アーノルドと呼んで欲しい」
「アーノルド……えぇ、わかったわ」
瞳は光を灯さないまま、口元にだけ笑みを浮かべて、アンジェラが頷く。アーノルドは手に持っていた箱をアンジェラに差し出した。
「これを、きみに。受け取ってくれるか?」
「……?」
不思議そうに首を傾げて、箱をじっと見つめる。ローレンスとマリアベルは、その光景を静かに見守っていた。少しの間のあと、アンジェラが酷くゆっくりとした動きで顔を上げる。
「これは……?」
「新しいドレスだ。きみのドレスはその……汚れてしまっていたから。この服もきみが普段着ているものより質は落ちるが、この街で一番の仕立て屋が作ったものだから安心していい。あぁそれと、この服に合わせて靴も用意した」
アーノルドは言いながら、箱のラッピングを解いて中身を取り出した。
落ち着いた赤色のドレスは、アンジェラの髪をより際立たせるもの。靴もそれに合わせた色使いになっている。
「……なぜ、私に?」
プレゼントなど、贈られる理由があるのかとばかりにアンジェラが問う。
「それはきみが、ローレンスの姉だから。世話になっている友人の姉に服を送るのは普通だろう? なんたってローレンスは、きみのことを誰よりも大切にしているから」
穏やかな笑顔を浮かべてアーノルドが言うと、アンジェラは少し間を置いてまたゆっくりと瞬きをした。そうして新しいドレスに手を触れて、瞳を細める。
「そう……ね。そういうことなら……受け取っても、いいのかしら……?」
「受け取りなよ、姉さん。せっかくなんだしさ」
ローレンスも笑って言う。アンジェラが薄く微笑んだ。
「ありがとう、アーノルド。……大事にするわ」
「そうしてくれると嬉しい。――と、ちょっとローレンスを借りてもいいか?」
姉を不安げに見つめるローレンスの肩にぽんと手を置いてアンジェラに尋ねると、彼女はやはり少しの間を置いてから頷いた。
「えぇ、構わないわ。……ロン、アーノルドに迷惑かけちゃダメよ?」
「わかってる。すぐに戻るから、姉さんは新しい服に着替えておきなよ」
アンジェラの肩を優しく叩いて、ローレンスは立ち上がる。マリアベルに視線を向けて、頷きあった。
「さ、アンジェラ! わたくしがお着替えを手伝ってさしあげますわ!」
マリアベルにアンジェラを任せ、ローレンスとアーノルドは二人、部屋の外へと出た。少しだけその場から離れ、アーノルドが切り出す。
「思っていたより重症みたいだな」
「……うん。ここまでとは思ってなかった。まさかまた、悪い状況に戻るなんて」
拳を握り締め、唇を噛む。
ローレンスが朝姉に声をかけたとき、アンジェラの瞳にはもう、光がなかった。一気に身体が冷える感覚を覚えて、指先が震える。自分がアンジェラで、目の前にいるのが弟のローレンスであるということは理解している。だけれど、それだけだった。なぜ今自分がここにいるのか、自分の身に何が起こっているのか、その一切が曖昧になってしまっていた。
思い出す素振りを見せたかと思えばすぐに忘れて、とりとめのない話をする。目の焦点は合っていない。その状況はマリアベルが訪ねてからも変わらず、アンジェラはぼんやりと薄い笑みを浮かべているだけであった。
昨日は確かにはっきりと意思の疎通が出来た。アンジェラの心は傷ついてしまったけれど、少しずつ治っていくものだと思っていた。
なのに今のアンジェラは、明らかに昨日より症状が進行している。
アーノルドは少し考える素振りを見せて、ローレンスに切り出した。
「ローレンス。ずっと思っていたんだが……アンジェラの言う『ランドルフ』という男――この国の、皇太子じゃないか」
「……え?」
「ランドルフ・オルブライト。クラウディア国第一王子。年齢はちょうど、おれやアンジェラと同じくらいのはずだ」
その名前は、ローレンスにも覚えがある。だがランドルフという名前は特別珍しいものでもなく、まさか王子であるとは考えもしていなかった。
「確かに姉さん、ランドルフは高貴な身分のひとだと思う、とは言っていたけど……まさか、そんなことが」
「なんだい、あんたたち。ランドルフ様が、どうしたって?」
シーツの山を抱えた女将が廊下を通りかかり、二人に声をかける。アーノルドは穏やかに笑みを浮かべて、挨拶をした。
「この国の王子がおれと同じくらいの歳だったと、そういう話をしていて」
「あぁ、確かにねぇ。そういえばあんたもその、ソール国の王子様なんだろう? 王子様同士ってのは、交流とかしないもんかい?」
「王家の子息令嬢の社交界デビューは、十八歳の『社会勉強』を終わらせてからなんだ。色々と制約があって……面倒なもんだよ、王族や貴族ってのは」
アーノルドが肩を竦めて言うと、女将はそうだねぇ、と相槌を打って、不意に思い出したように顔を上げた。
「そうそう、ランドルフ様と言えば、今日のニュースペーパー見たかい? なんでも、傷ついた竜族の娘を保護したらしいんだよ」
二人は顔を見合わせて、すぐに女将に向き直る。シーツの山を抱えた女将に、ずい、と近づいた。
「それって、一体どういう……」
「さぁ、見出ししか見てないから……気になるんなら入り口のカウンターのところにニュースペーパーが置いてあるから、見てみるといいよ。私は洗濯物を干してくるから、お客さんが来たら呼んどくれ」
「わかった、ありがとう女将さん!」
二人はすぐに言われた場所まで走り、いくつか積まれたニュースペーパーの中から該当の記事を見つける。
「竜族同士のいざこざか……傷つけられた竜族の娘が王家に保護されていることがわかった……未だ犯人が逃走中である、街ひとつが焼かれた事件の生存者は第一王子ランドルフ・オルブライト。そしてその竜族の令嬢、シンシア・ビアズリーであると言う……」
ランドルフと、シンシア。
アンジェラが何度も漏らした名前。アンジェラの心が壊れてしまった原因とも言える二人。
「アーノルド……」
「……あぁ……決まりだ」
ニュースペーパーを掴むアーノルドの手には、無意識に力が入っていた。
その記事にはランドルフの顔が載せられている。
この男が、アンジェラに愛されたのか。炎舞を捧げてもいいとまで想われていたのか。この男が、この男こそが……――。
想うひとに想われている。胸に浮かぶのは嫉妬以外のなにものでもない。
だが、それでも。
壊れてしまった彼女の心を取り戻すことが出来るのは、恐らくこの男だけなのだ。
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