第7話 想う心は変わらずに
身体を清め、髪を洗い、女将が持ってきた服に着替えさせた頃合い。
アンジェラの瞳が、ぱちりと開いた。
見慣れない天井に、部屋。自分の身体がベッドの上にあるのだということは、少しの間のあと理解した。
「まぁ、目が覚めましたのね。良かったわ、このまま眠ったままだったらどうしようかと思いましたわ」
マリアベルの声に、アンジェラはゆっくりと瞬きをして視線を向ける。当然だがマリアベルとは初対面であり、その表情には疑問符が浮かんでいた。
「心配なさらないで。わたくしはローレンスの友人です」
「……ローレンス、の……?」
アンジェラがゆっくり身体を起こすと、ちょうど女将がアンジェラが先程まで身につけていたボロボロのドレスを手にやってきた。
「あぁ、目が覚めたのかい。お嬢さんの服、随分汚れちまっててね。私の若い頃の服に着替えさせたんだけど……高貴な身分のお嬢さんには、やっぱり地味だねぇ」
「こういう服も着こなしてこそですわ。わたくし、ローレンスを呼んできますわね。女将さん、この方のことをお願いしますわ」
「えぇ、任されましたよ」
二人がかりでアンジェラの身体を清めている間にすっかり仲良くなったらしく、女将はマリアベルの言葉にすぐに頷いてゆっくりとアンジェラへ歩み寄った。アンジェラの顔をじっと眺めて、ほぅ、と息を漏らす。
「薄汚れていたから気が付かなかったけど、磨いてみたらまぁ、随分きれいなお嬢さんが出てきたこと。……あ、そうそう。この服なんだけど、どうするかい? 大分汚れちまって、修繕するのも難しそうだ」
煤に塗れて、あちこちが破れている。汚れが酷く、元の色とは全く異なる色になってしまっていた。
国を出るときに持ってきた、お気に入りのドレスだった。大事なときに着ようと決めて、あの日。
街が炎に包まれた、あの日に。
「……あ、……」
アンジェラの身体がまた震えだした。身体の奥から一気に冷えるような感覚に、自身の身体を抱きしめるように腕を回す。女将が訝しげにアンジェラの顔を覗き込んだ。
「ちょっと、どうしたんだい? そんな真っ青な顔で……」
――大切な日になるはずだった。
前日の夜はあんなにも幸せな気持ちでいたのに。きっと彼も喜んでくれると思っていたのに。
どうして話を聞いてくれなかったの?
なぜ私ではないと、少しでも考えてくれなかったの?
違うと言ったのに。話を聞いてと叫んだのに。
アンジェラの震えは止まらなかった。呼吸がまた浅くなり、ちかちかと目の前が何度も光る。
浮かぶのは優しく笑う愛しい人。そして自分を「化け物」と罵った……――。
「姉さん!」
再び狂気の国へ誘い込まれそうなアンジェラの意識を、弟の声が引き戻した。
「ロン……」
呼ぶ声に、ローレンスの表情が安堵に緩む。けれどのその顔はすぐに泣きそうに歪んで、ローレンスはアンジェラに走り寄りその身体を抱きしめた。
「姉さん、無事で良かった……」
アンジェラはその言葉を飲み込むのに、時間がかかった。なぜローレンスがここにいるのか、「無事で良かった」とは、どういう意味か。そうしてしばらくして、自分が「あの事件」のために国に帰ることが出来なかったのだと思い出し、はっと目を見張る。それからそっと、弟の背を撫でた。
「ごめんなさいね、ロン……心配かけてしまったわ」
「いいんだ、無事なことがわかったから。……いくつか聞きたいことがあるんだけど、大丈夫?」
「聞きたい、こと?」
「うん……もしかしたら姉さんは話したくないかもしれないんだけど、あの、」
「ゥオッホン!」
大きな咳払いが聞こえて、ローレンスは後ろを振り向く。腕を組みスンとした表情のマリアベルと、ぼうっ、とした表情のアーノルドが立っていた。
「ローレンス、まずはわたくしたちの紹介が先ではなくて?」
「あ、……あぁ、それもそうか」
ローレンスは一度アンジェラから身体を離し、二人の顔を一瞥する。すぐにアンジェラに顔を向けて、穏やかに笑った。
「おれの友だちだ」
マリアベルが前に出て、優雅なカーテシーを決める。
「初めまして、マリアベル・ラインハルトと申します」
すぐにアーノルドが続くと思ったが反応がなく、マリアベルがちらりと視線を向ける。アーノルドは未だぼけっとした顔で、ただアンジェラをじっと見つめていた。
「ちょっと、兄様!」
マリアベルに小突かれたアーノルドははっと我に返り、慌てた様子でマリアベルとローレンスたちとを交互に見やった。
「あ、あぁその、オレは、アーノルド。アーノルド・ラインハルトだ」
アンジェラは少しだけ表情を緩ませると、ベッドの上に腰掛けたまま胸元に手を当てて頭を下げた。
「アンジェラ・ヴァレンタイン。ローレンスの姉で……え? ラインハルト……?」
聞き覚えのある名前に、アンジェラが大きく瞬きをする。その視線がアーノルドに向くと、彼は身体をぎくりと強張らせ顔を赤く染めた。
「ソール国の王家が、その姓であると……」
「その通りですわ。わたくしは第一王女、兄様は皇太子ですの」
アンジェラははっとして、ベッドから立ち上がろうとする。しかしすぐに目眩がして、傾いた身体をローレンスが受け止めた。マリアベルも慌てて、ベッドの傍に歩み寄る。
「女将さん、何か温かい飲み物をお願いしますわ」
「あぁ、わかったよ。少し待っとくれ」
女将は頷いて、一度部屋から出て行く。マリアベルはローレンスと並んで、アンジェラをベッドの上へと戻した。
「申し訳ございません、王家の方の前で無作法な……」
「構いませんわ。だってわたくしたち、ローレンスの友人ですのよ。だからあなたももう友人です。ねえ、兄様」
マリアベルが振り向いて同意を求めるものの、アーノルドはまたしてもぼぅっとした顔で――アンジェラに、見惚れていた。
先程までは顔も髪も汚れていたためにしっかり顔を確認することが出来なかったが、すっかりきれいになったアンジェラの顔を見てアーノルドは再度確信する。彼女が間違いなく、初恋の君であると。
記憶の中の少女より大人びて、可愛らしいよりは美しい、綺麗だという方がしっくりくる。鮮やかな赤い髪に少しつり上がった金色の瞳、形の良い唇。胸はときめき、頬は熱く火照って。堪らない愛しさを感じていた。
「アーノルド、様……?」
彼女が自分の名を呼んだのだと知り、はっとする。とんでもない嬉しさがこみ上げて、顔が緩んだ。
「兄様。お顔がゆるっゆるでしてよ」
「――え、あ! う、うん? それで、何だっけ?」
完全に舞い上がってしまっている兄に、マリアベルは深くため息をついた。そうしている間に女将が温かいお茶の入ったコップを持って戻り、アンジェラに持たせる。
「どうも、込み入った様子だね。私は自分の部屋に戻るけど、何か必要なものがあったらすぐに呼んでおくれ」
「ありがとうございます、女将さん」
自分はここにいるべきではないとすぐに悟った女将は、マリアベルに笑顔を向けて言う。マリアベルが頭を下げると、ローレンスやアーノルド、アンジェラも会釈をし、女将は深く頷いて部屋を後にした。
「あの、マリアベル様……」
「マリアベルと呼んでくださいまし。マリーでも構いませんわ」
「そんな、王家の方をそんなふうに……」
「あ、あー、その、あ、アンジェラ? オレたち兄妹は今、『社会勉強中』でな。だからその、出来ればその体で接して貰いたいと思うんだが……」
ぎくしゃくと、非常にぎこちない口ぶりでアーノルドが言う。マリアベルもこくこく頷いて、瞳を輝かせる。
アンジェラは少しの間戸惑ったように視線を動かしたが、王家の人間がそれを望むのに抵抗しては逆に不敬に当たると思い、小さく頷いた。
「それでは、恐れながら……マリアベルに、アーノルド。……その、あなたたちと弟は、一体どういう……」
「おれたち、姉さんを探してたんだよ」
「え?」
「おれは家に戻らない姉さんを、それでアーノルドは初こ」
「あーーーー!! えっと!! 街で絡まれてたローレンスを助けたら姉さんを探してるんだって聞いて! こうして会ったのも何かの縁だと思って、協力を申し出たってわけだ!」
わざとらしく誤魔化すアーノルドに、アンジェラは訝しげな表情を見せる。しかしアーノルドはそんなアンジェラの表情にすら見惚れて、うっとりとしていた。
「えぇと……つまり、ローレンスを助けてさらに協力もしてくれたと言うことね?」
「……まぁ、そういうこと、ですわね」
マリアベルはじっとりとした眼差しをアーノルドに向けるものの、アンジェラの問いには頷いて見せる。アンジェラはまた胸元に手を当てて、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。何とお礼をしたらいいか」
「――あのさ、姉さん。さっきの続きなんだけど……おれたち、姉さんの話を聞きたくて」
「私の?」
「そう。姉さんの身に何が起こったのか……話してもらえる?」
不安そうに眉を下げるローレンスに、アンジェラは小さく笑みを浮かべて頭を撫でた。
自分の身に起こったこと。
あの日。あのときの、こと。
炎に包まれた街で、愛しいひとに蔑まされたときの……。
「好きなひとが、いたの……」
紡がれた言葉は、アーノルドの心をきつく締め付ける。先程までのときめきとは異なる、千切れるような強い痛み。
けれど彼は表情を動かすことなく、アンジェラの話に耳を傾けた。
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