第6話 馬車の中、失恋したのは
馬車の中から顔を覗かせ、後ろを見る。追手の姿は見えず、時間帯のため人通りもほとんどない。
当然か、と、アーノルドは息をつく。馬車についた家紋を見て追いかけてくる方がおかしいのだ。
「ローレンス、彼女の様子は」
馬車の中へと視線を戻し、尋ねる。力なくローレンスに寄りかかったアンジェラの顔には、やはり表情がなかった。ローレンスは首を左右に振り、眉を下げる。姉の身体をぎゅっと抱きしめて、静かに言葉を漏らした。
「……あんた、王族だったんだな」
「……まぁ、な。こうなったらもう、隠す必要もねェか。とりあえずどこかに宿を借りて身体を落ち着けよう。彼女も休ませないとならないし……オレとマリアベルについても、あとで話す」
ローレンスはしばらくアーノルドを見つめて、それからこく、と頷いた。
今は姉の身体を休ませることが先だと、アンジェラの肩を撫でてやりながら思った。
「う、ん……」
不意にアンジェラが小さな声を漏らし、ローレンスとアーノルドは同時にはっとする。彼女の肩を抱く手に力を込めて、ローレンスは顔を覗き見た。
「姉さん……?」
「――ロン? ……なぜ、ロンが……?」
「姉さん、正気に戻ったのか!? おれ、姉さんが帰ってこないから心配で……」
「……帰って、こない?」
一瞬だけ光が灯った瞳は、また再び暗くなった。アンジェラの身体が小刻みに震えて、呼吸が浅くなる。
「わたし……私は、あの街で……そう、あの街で、ランドルフと……ランドルフ……そう、彼と、いっしょ、に……」
「姉さん……?」
「約束……やくそくをしたの、ランドルフと……そう、えぇ、そうよ、あの日、彼はわたしの手を握って、頷いてくれて、……」
アンジェラの震えは止まらなかった。汚れた手のひらをじっと見つめて、顔を覆う。何度も首を振って、しゃくり上げた。
「シンシア、なぜ、なぜあんなことを……! ちがう、ちがうの、わたしじゃない、わたしがやったんじゃない……!」
「お、おい、落ち着け、きみ……」
アンジェラの様子に、アーノルドが思わず手を伸ばす。その手が少しだけ触れると、アンジェラはびくりと身体を強張らせてローレンスに縋り付いた。
「私じゃない、私じゃないのよロン! わたし、っ……わたしはただ、ただ彼に、炎舞、を……ランドルフに炎舞を見せたかっただけなの……!」
アンジェラに手を伸ばしたまま、アーノルドは動きを止めてしまった。
炎舞を見せたかったのだと彼女は言った。それは、一生の愛を捧げたいと思う相手がいたということ。
ようやく見つけた初恋の君には、想うひとがいる。ようやく見つけることの出来た恋は、一瞬にして打ち砕かれた。
「姉さん、わかってる。大丈夫だよ、おれは姉さんを信じてる。だから落ち着いて、今は休んで……」
何度もアンジェラの背中を撫でて、ローレンスは優しい声で言う。ちら、と固まったアーノルドを見て、少しばかり気まずそうに視線を動かした。嗚咽を漏らしていたアンジェラは少しして、張り詰めていた糸が切れてしまったかのように意識を失った。
「……えっと……何かごめん」
「謝るな。泣きそうになる」
答えるアーノルドの声は、実際震えていたのだった。
◇
それからしばらく馬車を走らせ、たどり着いたのは先程までいた街よりも建物が少なく、街頭もほとんどないような田舎町であった。マリアベルが馬車を止め、先に一人街の中へ入っていく。
「マリアベルが戻ってくるまでに、馬車の文様を隠しておこう。見つかると何かと面倒だし、気を遣わせてしまうからな」
アーノルドは先に馬車を降り、幌を取り出した。ローレンスはアンジェラを抱えたままであるため、馬車から降りて街なかへ向かったマリアベルを待つ。マリアベルが戻る頃には幌でしっかりと文様が隠され、アーノルドは両手を叩いて埃を払う。
「宿を見つけて来ましたわ。話はつけてありましてよ」
「あぁ、行こう」
マリアベルについて、一行は今日の宿へと向かった。
店主はふくよかな妙齢の女性で、遅い時間であったにも関わらず彼らを優しく迎えてくれた。
「あらあら、そっちのお嬢様は随分汚れているじゃない。服もボロボロだし、まずは汚れを落として着替えてもらわないと……」
店主はアンジェラに近づき、はっとする。流れる赤い髪に気付いたのだ。
「まさか、竜族かい?」
「そのまさかですわ。……これを出すのはルール違反ですけれど、仕方ありませんわよね、兄様」
「あぁ、任せる」
アーノルドの返事を受けて、マリアベルは姿勢を正す。それから膝を曲げてドレスの裾を掴み、流れるような仕草でカーテシーを披露する。
「ソール国第一王女、マリアベル・ラインハルトですわ。どうぞお見知りおきを」
店主ははっとして、まじまじとマリアベルの姿を見る。疑いの眼差しはある一点を見た瞬間確信に代わり、慌てて地面に膝をついた。
「失礼いたしました、王女様とはつゆ知らず……ご無礼をお許しください!」
「構いませんわ。わたくしたちこそ突然の訪問、許してくださいましね。少し訳ありですの」
ローレンスがこそりと、アーノルドに声をかける。
「何か目印が?」
「マリアベルの胸元のリボン、中央にボタンがついてるだろう? そこに文様があるんだ。馬車についているのと同じものが」
なるほど、とローレンスは頷く。
マリアベルはにっこりと笑顔を浮かべて、胸元に手を当てた。
「ソール国王家に誓って、わたくしの同行者に『罪人』はいないと断言しますわ。ですからどうか、こちらの竜族の方々も普通の人と変わらぬ接し方をして欲しいのです」
店主――女将は戸惑った表情を浮かべて、ローレンスと彼に抱えられたアンジェラとを見つめた。ローレンスは表情を引き締め、姉を抱えたまま深くお辞儀をする。その横でアーノルドも頭を下げた。
その様子に女将は真摯な表情を浮かべて深く頷き、どん、と胸を叩いた。
「この辺じゃあ、世話焼きおばさんとして有名なんです。お客様のプライベートを守るのも、宿を営むものの務め。竜族について詮索はしないと約束しましょう」
「まぁ! 本当に助かりますわ、わたくし国に戻ったらこの宿のことをお父様にお話します!」
「えぇ?! お、お父様ってつまり、ソール国の王様……か、勘弁しとくれ、こんな田舎の宿を王様の耳になんて!」
慌てた様子でぶんぶんと手を振る女将ははっと我に返り、オホン、と咳払いをしてローレンスたちに向き直った。
「えぇと……それじゃあ本当に、普通の人と変わらない接し方をするけど、いいんだね?」
「あぁ、もちろん。身分こそ明かしてしまったけど、オレたちは今『勉強中』の身なんだ」
「なんだ、そういうことかい! それじゃあ遠慮はしないよ。まずはそのお嬢さんをお風呂にいれましょうかね」
「わたくしもお手伝いしますわ!」
意気揚々とマリアベルが腕まくりをする。そこにはもう、先程まで見事なカーテシーを決めていた王女はいなかった。ローレンスが女性二人の迫力に呆気にとられている間にアンジェラは二人の手によって運ばれていってしまった。
残された男二人はぽかんとして、それから同時に顔を見合わせる。どちらかともなくはは、と乾いた笑いを浮かべた。
「マリアベルが王女ってことは、あんたは皇太子ってことか」
「一応、そういうことになるな。……あ、言っておくが態度は変えるなよ、今は平民として過ごしてるんだ」
「今さら変えないよ。おれも堅苦しいのは嫌いだし。……彼女、王女なのに随分色んなことが出来るんだな。馬車もそうだし、さっきなんて飛び蹴り食らわせてた。そもそも最初に見たのは石を持ち上げてるところだ」
「母親にそっくりなんだ。オレたちの母親……つまり王妃だが、マリアベルが大人になったならあんな感じだろうな、って思う」
ローレンスはふふ、と笑って俯いた。拳を握り込み、静かに言葉を漏らす。
「姉さんも、強いひとだった。あんなふうに取り乱す姿、今まで見たことない」
馬車の中のアンジェラは、正常な状態ではなかった。話もちぐはぐで、意思疎通が出来ていたようには思えない。
何かを思い出すかのように、過去の記憶を辿るかのように紡がれる言葉はどれも痛々しく、そして何よりその表情は絶望で歪んでいた。
「……多分、な。彼女は、心を壊してる」
「……うん」
「もし……治せるとしたら、それは多分……彼女が愛した相手、だ」
自分で言葉を漏らし、アーノルドはずぅん、と落ち込んだ。どうしたって失恋のダメージは大きく、それを理解する度に胸は軋んだ音を立てて引きちぎられそうになる。はぁあ、と大きくため息をついて、それからぶるっ、と頭を振る。
「アーノルド」
「いや、悪い、ローレンス。彼女があんな状態であるのに、失恋に落ち込んでる場合じゃないな」
ふー、ともう一度息を吐き出し、アーノルドはローレンスに向かって穏やかに笑った。
「なぁ、出来るなら彼女の心を治す手伝いをさせてくれないか。下心が全然ねェわけではないんだが……あんな彼女を見て、見つかったからそれで終わりにしたくねェんだ」
「え……い、いいのか? もしかしたらもっと嫌なものを見ることになるかもしれないんだぞ?」
「それでも、だ。……ずっと想っていた、いや今も想っている相手なんだ。彼女のために出来ることをしたい」
ローレンスは改めて、アーノルドが深く姉を想っているのだということを理解した。たった一度出会っただけの少女をどこまでも一途に想い続け、その女性に想う人がいたにも関わらず抱いた気持ちは変わらないのだという。
彼はもしかしたらこれからもずっと姉を想い続けるのかもしれない。
そんな人と姉が結ばれたら、姉はどれだけ幸せになれるだろうか。
――もっともそれは、叶わぬ夢かもしれないのだが。
「ありがとう、アーノルド。やっぱりあんたは、信用できる」
弟は誰よりも、姉の幸せを願っている。愛し合いされ、手を取り合う未来を夢見ている。
彼の想い描く未来の中に、一人の少女が寄り添っていたことを、今のローレンスは気付いていなかった。
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