第2話 暴走女と凶暴女

「ん……」


軽い頭痛を感じて、俺は目を覚ました。いつの間にか俺はベッドの上で寝ていたようだ。何かが起こったような気もするが、よく思い出せない。


「夢、か」


だとしたら、なんだかとてつもなく痛い夢を見た気がする。こう、何か硬いものが顔面に――


「あ、気がつかれたんですね」


「へ?」


思わず素っ頓狂な声を挙げてしまう。視界にいきなり飛び込んできたのは、少女の顔だった。


「今お水持ってきますから」


そう言い残し、少女は奥の部屋へ向かっていく。俺は何が起こっているのか理解できず、体を硬直させたまま少女の後姿を見ていた。


「はい、どうぞ」


「あ、すいません」


俺は渡された水を飲み、一息つく。少し冷静になったところで、辺りを見回す。どうやらここは、俺の部屋ではないらしい。間取りは似ているが、俺の部屋のように殺風景ではない。白やピンク系統で統一された家具が並び、中でもきれいに整理された化粧台が一際目を引いた。ぬいぐるみもいたるところに飾られていて、俺が寝ていたベッドにも、大きなクマのぬいぐるみが座っていた。そしてなにより、とてもいいにおいがする……。まさにザ・女の子といった感じの部屋だ。間違いなく、俺の目の前にいる少女の部屋だろう。

俺はなんでこんなところにいるんだ。


「あのー、どうして俺はあなたの部屋に?」


「もしかして……覚えてないんですか……?」


えーと、なぜそんな潤んだ瞳で俺のことを見ているんでしょうか……。俺はなにか悪いことでも――。


(まさか!)


俺の脳裏を嫌な予感が駆け抜ける。ベッドの上で目覚めた俺、部屋で二人きり、そして今にも泣きそうな女の子……そこから導かれる答えは――。


(ヤ、ヤっちまったのか!? 俺は!)


なんで俺はそんな良い体験を覚えてな……いやいや、今問題なのはそこじゃない。こんな見ず知らずの女の子になんてことをしちゃったんだ俺は! 酒のせいか!? 飲んだ記憶はまったくないが……。しかし、記憶がないってことはやっぱり酒のせいなのか!? これはあれか? 「責任とってよね!」とか言われちゃうパターンなのか!?

一人でテンパる俺。少女はなにかを言いたそうにこっちを見ている。その幼い顔立ちを見て、俺の嫌な予感はさらに加速する。


(この子、よく見たら中学生じゃないのか!?)


瞬間、『犯罪者』という単語が俺の頭の中をぐるぐると回る。ああ、父さん、母さんごめんなさい。あなたの息子は明日から警察のお世話になります。しっかり罪を償うので、面会だけはちゃんと――。


「ごめんなさい!!」


少女が急に大声をあげる。それは俺が予想もしてなかった謝罪の言葉だった。


「へ? それはどういう……」


「きっと、薫ちゃんが強く殴りすぎて、記憶喪失になっちゃったんですよ! そのあと、地面に頭ぶつけちゃったし……」


薫ちゃん? 殴る? いったいなんの話をしてるんだ?


「私がいけないんです……。ナンパなんて無視して、すぐに薫ちゃんのところに行けばよかったのに……。でも、相手が二人だったから、私、怖くて……ほんとうに、ごめんなさい!」


その時、俺はすべてを思い出した。この子が男二人にナンパされていたこと、それを俺が助けに行ったこと、そして、一陣の風が男たちと俺の意識を奪っていたこと。


「さあ! 早く病院に行きましょう!」


「え!? ちょっと待って! だ、大丈夫だから!」


少女は俺の腕をひっぱり、無理やりでも外に連れ出そうとしている。その力は小さな体に見合わず、意外に強い。しかも、俺が何度大丈夫だと言っても耳に入っていないようだ。


「だから、大丈夫だって!」


そう言って立ち上がろうとする俺。しかし、そのまま少女に引っ張られる形で前のめりに倒れる。当然このままではこの子を下敷きにしてしまうのだが、俺は間一髪のところで両手を床についてそれを免れた。その代わり、俺が少女を組み敷いた体勢になっている。文字通り目と鼻の先に少女の顔が――。


「ただいまー。絆創膏と消毒液買って……来た……ぞ」


そしてまさかの第三者登場。声から判断すると女性のようだが、どう見ても誤解されるよね、この状況は。


「あ、いや……これは――」


まずい、背中に鬼神の如きオーラが見える。


「てめえええぇぇ!! なにやってんだああ!!」


彼女が短距離選手なら、おそらく世界新が狙えたであろう瞬発力。拳はもう目の前だ。

ああ、父さん、母さん。警察のお世話にはならなくて済みそうですが、俺はもっと遠いところに行くことになりそうです。


       ◆


「……で、ほんとにただの事故なんだな?」


「うん。私が無理やり引っ張っちゃって」


「どうも、ご迷惑をおかけしました……」


あのあと、殴られる前にどうにか誤解を解き、傷の手当をしてもらった。その最中に今回の事の顛末も聞いたのだが、どうやら俺のことをナンパ男たちの一員だと勘違いした、といういたって単純明快な理由だ。(だからといって、顔面に正拳突きはいかがなものだろう)

そして、気絶した俺を近くの少女の家に運び、介抱してくれたというわけだ。ちなみに、二人とも俺と同じ大学二年生。ここから二駅ほど離れた場所にある私立の女子大に通っているそうだ。


「あの、私は浦本咲(うらもと さき)っていいます。今回はこんなことになってしまって、ごめんなさい」


最初に俺を介抱してくれた少女――もとい、小柄な女性、浦本が頭を下げる。


「いえいえ、いいっすよ。俺のほうこそすいません、傷の手当までしてもらって」


俺は右頬に貼られた絆創膏を触りながら言った。


「あたしは早川薫(はやかわ かおる)。その……今回は……ごめん」


そして、浦本の隣には、俺の意識を見事に飛ばし、さらに息の根まで止めそうになった女性、早川がいる。今は申し訳なさそうに床の上に正座している。ただ、目線はこちらをみていないが。


「まぁ、もう過ぎたことですし。次同じことがあったら、ちゃんと相手を確認してくださいね」


早川は少し首を縦に振った。相変わらず目線はこちらを向いていない。ほんとうに反省してくれているのだろうか。


「あ、俺は藤川大樹っていいます。えっとメガネ、メガネ……」


ポケットに手を入れる。なにか嫌な感触が右手を伝ってくる。俺は恐る恐る中身を取り出した。


「あちゃー……」


出てきたのは見るも無残な形になってしまった俺のメガネだった。両方のレンズは砕け、フレームもぺちゃんこになっている。もう使い物にはならない。


「す、すいません! 弁償します!」


「い、いや、いいですよ」


と言いながら、内心かなり困っていた。俺は代えのメガネを持っていない。となれば新しいのを買わなくてはいけないのだが、最近のメガネはけっこう値が張る。伊達なら安価で売っているが、俺はかなりの近眼だから、度がついていないといけない。諭吉の1、2枚は軽く消えてしまう。ファミレスでデザートをつける云々とは訳が違うのだ。俺のような苦学生にとってはかなりの出費になる。

だから、こういう申し出はありがたいのだが、それをすぐに了承するのは俺のプライドが許さない。ここは一旦引き下がっておいたほうが自然だ。


「いいんじゃない? この人が別にいいって言ってくれてるんだから」


おい! 余計なことを言うんじゃないよ!


「だめだよ! ちゃんと弁償しないと! あ、でも今持ち合わせが……」


「この時間じゃ銀行も閉まってるだろうし」


おいおい、もしかしたらこのまま話が流れてしまうのか!?

その時、浦本がなにかをひらめいたように口を開いた。


「そうだ! じゃあ、明日払います」


「明日、ですか? んー、まあ明日なら俺は講義がないんで、いいですよ」


「じゃあ決まりですね! 明日私たちは午後からバイトがあるんで、朝に待ち合わせにしましょう。二人で藤川さんのメガネを選びのお手伝いをします!」


「え!? あたしも行くのかよ!」


「いや、俺はお金だけ払ってもらえればいいんですけど……」


「いえ、壊したのは私たちですから。最後まできちんとさせてください! それに、お金だけ渡すっていうの、なんだか冷たい感じがして……」


律儀というかなんというか――。隣の早川は、うな垂れたように顔を伏せている。たぶん諦めているのだろう。こうなったら止められないのだと。初対面だが、俺も同じ感覚を覚えていた。


     ◆


それから、連絡手段がないと困るからと、二人とアドレスを交換した。集合場所は今日の夜にメールするそうだ。

俺はアパートにつくと、ベッドに腰を降ろし、携帯を開いた。サイレントにしていて気がつかなかったが、メールが2件入っていた。差出人は浦本、そしてその数分後に早川からだ。


『今日はすいませんでした。また夜にメールします。本当にすいません』


できる限り申し訳なさそうな絵文字を使い、一生懸命謝罪する浦本のメール。ほんとうに純粋な人なのだろう。少し暴走気味なところはあるが……。それに対して早川は


『今日はごめん。また明日』


絵文字の一つもない。無愛想加減がメールにも現れている。それでも、メールをしてきたってことは一応悪いと思っているのだろう。

とりあえず、俺は二人に返信して、ふうっと息を吐いた。出会いはどうあれ、大学に入って初めて女の子とアドレスを交換した。痛い思いはしたが、小さな喜びが少なからずあった。


「ま、どうせ今回だけのことだろ」


そう自嘲してから、俺はベッドに横になった。

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