第15話 皿とイモと青い空
ジェラルドが絵を描くために使っていたのは、借り受けた部屋の中では、比較的狭い一室だった。
そこにどやどやと、ぜひジェラルド殿下の描くものを拝見したい、とランドルフ王子を筆頭に、宮廷画家までが押し寄せてくる。
私には、絵の良し悪しはわからない。ただ、ジェラルドの絵があまり上手でないことくらいは、理解できていた。
だから、批評されたらジェラルドが気分を害するのではないかと、少し心配していたのだが。
それはまったく、必要のないことだった。
「おお。これがジェラルド殿下の、作品でございますか」
満面の笑みを浮かべて、まずは王子が言う。
次に背後にひかえていた宮廷画家たちが、一斉に口を開く。
「さすが帝国の芸術。我らの感覚とは違い、なんというか、つき抜けておりますな!」
「ああ、私には理解できますぞ。この至高の作品の芸術性が」
「なんと高みにまで達しておられるのか。抽象的であり、必然的であり、それでいて概念的な芸術性」
「これはなかなか、素人などにはわかりにくいものでしょうなあ」
「かもしれませんなあ。私はここまで芸術を昇華させた殿下の感性に、感動のあまりこみあげるものが……」
宮廷画家の中には大げさに、目を潤ませているものもいる。
ところが、ひとりだけ汗をかき、なんとも言えない表情で、もぞもぞと言うものがいた。
「ええと、風景をお描きになっておられるとのお話でしたが、静物画にされたのですか? 食べ物のようにお見受けしますが」
(あっ!)
後ろで見ていた私は、思わずアルヴィンと顔を見合わせる。
(やっぱり皿とイモだと思われてる!)
ジェラルドは小さく、咳払いをした。
「言っておくが。それは皿とイモではなく、池とバラの茂みだ」
低い声に、宮廷画家たちの顔色が変わる。
「あっ、当たり前ではないか!」
ひっくり返った声で言ったのは、ランドルフ王子だ。
「これはどこからどう見ても、池とバラだ! やはり宮廷画家などと言っても、しょせんは平民。高貴な血を引くものの芸術は、わかりかねるのも仕方がないが」
「いやいやいや、わからなかったものは彼ひとり。私にはわかっておりましたとも」
「うむ。実に素晴らしい池だ。現実の世界を離れ、自由に羽ばたいておられる。バラも見事だ、まるで人には見ることの出来ぬ、幻の庭の神々の花」
(羽ばたく池ってなによそれ。人に見えない花ってのも、意味わかんない)
結局、誰もがジェラルドのご機嫌を取ろうとして、必死なのだろう。
ジェラルドもよくわかっているようで、どうでもいいという顔をしている。
「納得したのであれば、引き取ってもらえぬか。ゆっくりと集中して、創作したいのだ。……が、ちょっと待て。そこの、赤毛のもの。名は、なんと言う」
ジェラルドに指差されたのは、食べ物に見える、と言った若い宮廷画家だった。
彼は自分が呼び止められたのを、投獄でもされると思ったのか、顔から血の気を失っている。
「は、はい。クライブと申します。さ、さきほどは、まことに、私の未熟さのせいで、見当違いなことを言ってしまい、申し訳ございませんでした!」
「けしからん!ダグラス王国の面汚しだ!」
「貴様には感性が欠如しておる、恥を知れ!」
宮廷画家たちは、激しくクライブを叱責する。
「そうだ謝れ! 子々孫々の代まで謝罪をしろ! お前のように芸術のなんたるかもわからぬやつなど、これまで築いた財はすべて没収、宮廷画家も即刻、解雇だ!」
ランドルフ王子もわめいたが、ジェラルドは静かに首を左右に振る。
「そうではない。クライブ。きみに、仕事をして欲しい。とても小さなものに絵を描いて欲しいんだ。引き受けてもらえるかな?」
「っは、はいっ!」
クライブは棒切れのように、直立不動で返事をする。
宮廷画家たちは、ぽかんとした顔をして彼を見た。
ランドルフ王子も拍子抜けした顔になり、振り上げたこぶしをどうしていいのかわからない、といった顔で、ぼそぼそと言う。
「ま、まあ、ある意味、人とは違う彼のような見方も、ときには必要であるかもしれぬな。で、では我々はこれで失礼する」
すごすごと王子たちが退散すると、部屋は急に静かになった。
ジェラルドはひとり残って、びくびくしているクライブに、懐から鎖のついた金時計を取り出す。
「この、蓋の内側に絵を描いてもらいたい。頼めるか? モデルや報酬など詳しいことは、あとで伝える」
「はいっ、命に代えましても!」
固く約束してから、クライブは退室して行った。
私は今のやりとりを見て、アルヴィンに尋ねる。
「時計の裏蓋に絵なんて、なんだか素敵ね。お国ではよくあることなの?」
「そうですねえ。貴族に限らず裕福な商人たちの間では、別に珍しいことではありません。しかしジェラルド殿下が絵を所持しようとするのは、珍しいことですが」
「あらそうなの?」
ジェラルドはこちらを見て、小さく笑う。
「ああ。皇太子である一番上の兄上は、芸術のために生まれたような人なんだがな。美術品も、たくさん所蔵しておられる」
「そういえば、ジェラルドは三番目の皇子様って言ってたから、ふたりのお兄様がいるわけよね。じゃあ、二番目のもうひとりのお兄様はどんな方なの?」
「そちらの方は、正反対です」
今度はアルヴィンが説明する。
「兵を率いて戦うことがなにより生きがいという、猛々しい武闘派の方なのです」
ふーん、と私はジェラルドの兄弟を想像してみるが、まったくイメージが沸いてこなかった。
今まで考えたこともなかったが、こういうときに、肖像画があるといいのかもしれない。
「ですから私は、次期皇帝としては文武のバランスのとれた、ジェラルド様がもっともふさわしい、と考えているのです」
「アルヴィン!」
思いがけず、厳しい声でジェラルドが言い、アルヴィンはぴたりと口をつぐんだ。
「滅多なことを言うものじゃない。キャナリーも、今の言葉は聞かなかったことにしてくれ」
「え、ええ、なんだかわからないけど、複雑なことに首は突っ込まないことにするわ」
私は答える。もちろん帝国の事情などわかりようがなかったが、内部の貴族社会は国がもっと大きいがゆえに、ダグラス王国以上にどろどろしているのかもしれない、と思ったからだ。
「帝国で誰かに聞かれたら、暗殺ものだぞ、アルヴィン」
「も、申し訳、ありません。異国にいるうちに、気のゆるみが出てしまいました」
まあしかし、とジェラルドは明るく言った。
「三男という気楽な立場であるからこそ、こうして、聖獣探しの旅にも出られたというものだ。そしてキャナリーにも出会えた。ずっと城にいたら、息が詰まるからな」
ともあれこんなふうにして、しばらく私たちはダグラス王国の王宮に、滞在することになった。
確かめたいのは聖獣の所在。
そして、もし手がかりだけでも見つけられたら、すぐに出立し、探索を開始。
うまく聖獣と接触した後に、できれば連れて帰りたいというのが、ジェラルドとアルヴィンの望みだった。
♦♦♦
「わあ、素敵。小高い丘があったのね。私こんなところ、知らなかったわ」
アルヴィンが聖獣の気配を探り、ジェラルドが趣味の絵を描くふりをする。
それ以外には、連夜の面倒な宴会以外
特にやることもなかったので、翌日私たちは、散策に出かけた。
風光明媚な土地を写生したい、というのが名目だが、もちろん肝心なのは聖獣の探索だ。
この場所を教えてくれたのは、宮廷画家のクライブだ。
丘からは田園地帯が見渡せ、さらさらと流れる小川もある。
花もたくさん咲いていて、風はその香りをのせていい匂いがした。
「ああー。気持ちいい」
草の上に敷かれた敷物の上に、私はごろりと横になる。
ここまでは、二頭立ての馬車二台でやって来て、従者も小姓も離れた場所で待たせているため、気を遣う必要はまったくなかった。
一応、護衛の衛兵も数人、待機しているのだが、ここからだと遠くて声までは聞こえない。
アルヴィンは、あまり太陽の光を長く浴びているのが好きではないそうで、馬車の中でペンデュラムと、にらめっこをしていた。
だからここには、ジェラルドと私しかいない。
「キャナリー。さすがに外で横になるというのは、レディのやることではないと思うが」
「レディはやらなくても、私はやるのよ。どうしてだか、知りたい?」
青い瞳を見つめて尋ねると、ジェラルドはうなずいた。
「それなら、隣に横になってみて。そうしたら、きっとわかるわ」
「そ、そうか?」
うろたえつつ、ジェラルドは素直に私の隣に身を横たえた。
草の上とはいっても、敷物はふかふかした分厚い織物なので、ごつごつしたりはしていない。
「ねえ、どう?」
私は真っ青に晴れ渡った空に、真綿を薄く伸ばしたような、雲が流れているのを、眺めながら言った。
ちちっ、と鳴いて二羽の黄色い小鳥が、視界を横切っていく。
しばらくジェラルドは、黙って私と同じように澄んだ空を見つめていた。
そして、ぽつりとつぶやく。
「なるほど。気持ちがいいものだな」
「でしょ? 私はよく、森の中でこうして空を眺めていたわ。敷物なんてないから、苔の上でだけど。それにたくさんの木の枝があったから、こんなに広い空は見られなかったわ。でも、それはそれで木漏れ日が綺麗なのよ」
「キャナリーは、いつも楽しそうだな」
ジェラルドが、空を見ながら言う。
「幼いころは、貧しさから大変な思いもしただろうに。それさえ、楽しそうに語る」
「貧しいってことさえ、よくわかってなかったもの」
私は昔を思い出し、くすっと笑った。
「ともかく、ラミアを中心に私は生きていたの。ときには食べ物の奪い合いになったし、ひとつの木の実のために、取っ組み合いの喧嘩もしたわよ」
「一方的にやられっぱなしではなかった、ということか」
「だって私は大きくなっていくし、ラミアは弱っていったから。でもね」
私は幼いころの、大切な記憶を口にする。
「四つくらいのときだったかしら。私が熱を出して、何日も寝込んだことがあったの。あの日のラミアは……確かに私に優しくしてくれたわ」
しわくちゃのごつごつした手で、何度も頬を撫でてくれた。
夜中も寝ないで、額を塗れた布で冷やし続けてくれた。
『負けるんじゃないよ、お転婆の、ちびすけの、鼻たれ娘が。これまであたしが育ててやった時間を、無駄にする気かい。とっとと治って、間抜けなことをしでかして、あたしを笑わせとくれ』
口は悪かったが、明け方まで何時間も必死で重い棒で鍋をかきまぜ、かまどの熱で顔を真っ赤にして、私のために薬を作ってくれていた。
治った翌朝に、初めて食べさせてもらったプディングの味を、私はおそらく死ぬまで忘れないだろう。
あの記憶がある限り、私はラミアを強欲なだけの意地悪婆さんとは、どうしても思えなかった。
「ではきっと、根は優しい人だったのかもしれないな」
「どうかしらね。でもラミアの薬が、たくさんの人を助けていたのも事実よ。わたしもほとんど作り方を覚えているから、またあの家に戻ったら、薬作りをするのもいいかしら、って思ってる」
「……うん? 今の話だと、きみはいつか、あの家に戻るつもりでいるのか?」
言われて私は、きょとんとしてしまった。
「それはそうよ。他に帰るところなんてないもの」
今、こうしてジェラルドといるのは楽しい。
旅をしても、きっと楽しいに違いない。
けれど旅はいつか終わる。
彼らがグリフィン帝国に帰るように、私は森へ帰ることになるだろう。
それが当たり前と思っていたのだが、ジェラルドは違うらしかった。
「もちろん、キャナリーがどうしてもそうしたい、というのならそれはそれで、駄目だとは言わないが。ただ、俺としては、つまり」
ジェラルドは、なぜか言いにくそうに、しどろもどろになっている。
「ジェラルド、あなた具合でも悪いの? それともお酒を飲んだ?」
「いいや。どうして」
「だって顔が赤いわよ。部屋に戻ったほうがいいかしら」
「違うんだ、キャナリー。赤いとしたら、それは少し、ワインを飲んだからだろう」
「あら、やっぱりいつの間に。もしかして、馬車の中で?」
「あ、ああ。そんなことより、俺が言いたいのは。──この聖獣探しが終わっても、きみとずっと一緒にいたい、ということなんだ」
「えっ。それって」
私は言葉を切り、上体を起こしてジェラルドを見つめる。
「私に、グリフィン帝国に来いっていうこと?」
「そ……そういうことだ」
「じゃあもしかして!」
思いついて、パンと両手を打ち鳴らす。
「私を侍女に召し抱えてくれるのね!」
なんて素敵な申し出だろう。
すっかり私は喜んで、ジェラルドに尋ねた。
「お給金は、まあなんでもいいわ。お料理は、どんな感じ? 侍女でも美味しいものが食べられるの? グリフィン帝国の名物ってなに? ダグラス王国よりずっと豊そうだから、名産品も多そうよねえ」
数々の美味しそうな料理が乗った皿を想像して、私はゴク、とつばを飲み込んだ。
するとジェラルドは、なぜか笑い出してしまった。
「きみはまったく、俺の一世一代の告白を、いつも笑い話にしてしまうな」
「えっ、ごめんなさい! 変なこと聞いちゃったかしら。もしかしてダグラス王国よりもグリフィン帝国は、お料理に関してはいまひとつだとか……」
「そんなことはない」
くっくっと、まだ笑いながらジェラルドは答える。
「そうだな。名物は、湖でとれる雷魚の香草焼き。それに素晴らしく香りのいいキノコを、
鳥に詰めて蒸した料理がある」
「うわあ。聞いたことのないお料理だけど、美味しそう。デザートは、どんなものがあるのかしら」
「そうだな。ご婦人方はネクタールに夢中のようだった」
「ネクタール? なあに、それも初めて聞いたわ」
「なんといえばいいかな。とろりとして、苦味と甘みが混ざったものだ。茶色をした花の蜜で、色はあまり良くないが、香りがとてもいい。温かい液体にして、少しずつ味わう方法もあるし、固めればワインにも合う」
「なにそれ、食べてみたい!」
私はまだ見ぬネクタールを想像し、両手を組み合わせた。
さわさわさわ、と私とジェラルドの上を、気持ちのいい風がふいていく。
わけもなくウキウキした気持ちになっている私に、ジェラルドは言った。
「さてどうかな、キャナリー。目当てがネクタールでもいい。グリフィン帝国に、来てくれる気になったか?」
少しだけ考えてから、決めたわ、と私はうなずいた。
「でもそれなら、ラミアの家をちゃんとしなくちゃ。マレット子爵家からならそう遠くはないし、旅なら、戻る機会もあると思っていたけれど」
「本格的な引っ越しと考えてくれ。従者に言って、手伝わせよう」
「お願いしたいわ。薬を街に全部売りに行くにしても、ひとりだと運ぶだけでも大変だもの。それに私が読めたくらいの簡単な文字だけど、調合の仕方を書いた木片も、すごい数があるはずよ。羊皮紙は高いから、ほとんどラミアは木の板に書きつけていたの」
「それくらいのことなら、まったく問題ない。何度だって頼まれたいくらいだ。早速戻ったら、従者に運び出すよう手配をしよう」
ジェラルドは上機嫌で言う。
「ともかくきみは俺と、グリフィン帝国へ行く。そう決意してくれた、と思っていいんだな?」
「ええ、約束するわ」
微笑むジェラルドに、私も笑顔で応じた。
(グリフィン帝国、ジェラルド皇子殿下づきの侍女。美味しいお料理と、ラミアのよりは多分ずっとましなふかふかベッド。令嬢より侍女のほうが、堅苦しくなさそうだし。うん、悪くないんじゃないの)
私は起き上がり、バスケットに用意されている軽食と、飲み物を引っ張り寄せる。
「じゃあ早速、お祝いの宴よ、ジェラルド」
「賛成だ」
ジェラルドも起き上がり、私の頭についていたらしき葉っぱを、優しくはらってくれる。
「この王国での宴会にはうんざりだが、きみとふたりの、青空の下での祝賀会なら歓迎するよ」
とはいえ私はあまり、お酒には強くない。
だからビンに詰めて持ってきていた、野イチゴのジュースで乾杯することにする。
ジェラルドの瞳のように、深い青空には日を受けて、白く輝く雲。花の香りのする風。そよぐ短い丈の草。
この光景を、私は一生忘れないだろう。
ジェラルドのきらきらと日をすかす銀髪を見ながら、なぜか私はふと、そんなふうに思ったのだった。
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