中編

「ん……」


 窓から差し込む日の光と雀の鳴き声で、私は目を覚ました。頭がよく働かないし、体がだるい。


「んー?」


 私はベッドではなく、床に敷いたラグマットの上で横になっていた。体のあちこちが痛い。

 あれ? なんだっけ?

 薄目を開けた状態で思考を巡らすが、よくわからない。目に入るのはテーブルの足と、無造作に脱ぎ捨てられた紺色のジャケットだけ。


 紺色のジャケット?


 私の脳は一気に目覚める。

 そして昨日の失態を思い出し、体の痛みは忘れて飛び起きた。

 ジャケットの持ち主は、テーブルに突っ伏して眠っていた。テーブルの上には食べかけのカップケーキが転がっている。


 やってしまった。自分の顔が青くなるのがわかる。

 念のため、そう、念のため自分の衣服を確認する。床で寝たことで乱れてはいるものの、肌や下着は見えていない。

 彼もワイシャツ姿になっているだけだ。

 そういう意味での間違いはなかったようで、ひと安心する。少しはがっかり。

 いやいや、そんな問題じゃない。


 必死に昨夜の出来事を思い返す。

 いつも通り彼といつもの居酒屋で飲んだ。それまでは良かった。ただ、いろいろ思い詰め過ぎていて、きっと我を忘れていたのだろう。

 酔いが回って口が軽くなり、今日が誕生日だと明かした。彼は驚いた様子で「おめでとう」と言ってくれた。

 浮かれた私はその勢いで、彼を無理に家まで誘ってしまったのだ。どうしても祝えと、通り道のコンビニでカップケーキをねだって。頭がおかしいとしか言いようがない。


 これは困った。大変困った。

 洗濯物はそのままだし、ベッドもぐちゃぐちゃ。こんな部屋を彼に見せてしまった。

 女として見られていないとはいえ、これはかなりの減点ポイントだと思う。

 私の久しぶりの恋は終わってしまった。


「おぅ……」


 物音に気付いたのか、彼が頭を上げた。自分の鼓動がとんでもなく早くなっているのがわかった。


「お、おはよう……ございます……」

「おう……」


 彼はまだ寝ぼけているみたいだった。油断した顔も素敵。いや、違う。

 沈黙が数秒続く。かなり気まずい。


「あ、あのっ」

「お、悪い! すぐ出ていくから」


 私が謝ろうと口を開いたのとほぼ同時に、彼は素早く立ち上がった。そのまま慌ててジャケットと鞄を持ち上げ、玄関まで早足で歩いていく。

 帰ってしまう。気まずいまま、帰ってしまう。


「待って、コーヒーいれますから。インスタントだけど」


 私の手はいつの間にか、彼の袖を掴んでいた。それと同時に、昨日食べたもののせいで、口臭が酷いことに気付いた。ガーリックシュリンプはだめだろう。


「じゃあ、少しだけ」


 彼は、革靴に突っ込みかけた足を戻してくれた。ちょっと声がかすれているのは、寝起きだからだろうか。


「座っててくださいね」


 彼をラグマットの上に座らせ、電気ケトルのスイッチを入れる。

 マグカップは、ひとつしかない。そりゃそうでしょう、来客なんて今までなかったんだから。

 諦めて、猫柄のマグカップにインスタントコーヒーを作る。彼はブラック派だ。


「どうぞ」

「ありがとう」


 彼とはテーブルを挟んだ反対側に座る。

 まずは謝らなきゃ。幻滅はもうされたけど、嫌われるのだけは避けたい。

 今なら飲み友達のポジションは維持できるはず。とにかく、謝らないと。


「あの、聞いてください」


 コーヒーをすする彼を見る。

 彼が私のマグカップに口をつけている。洗いはしたけど、間接キスだ。


「好きです」


 あ。

 間違えた。


 彼は盛大にむせていた。

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