ゼロ
二時間半が過ぎた。時刻は午後20時12分。
初めて打鍵音が止まった。
「ふぅ……」
綾人は立ち上がり首や肩を軽く回した。骨が鳴る。
汗一つかいていない、疲れ一つ見えない無表情な面で綾人は野崎を見た。何もない。吸い込まれそうなほどに何もない瞳には、無限の虚無が広がっていて、野崎はその場で床に尻もちをついた。
「大丈夫か?」
「あ、あ、あんた……い、一体……何なのよ? ば、化け物……あ、悪魔よあんた、何者、なの……?」
野崎は自分でも驚くほどに喉が震えているのか、舌が上手く回らない。原稿の文字数カウンターは既に6万字を有に超えていて、嵐が直前まで書いていた小説を完全に復刻していた。
綾人は眉をひそめて野崎を見下ろし、指を鳴らしていた。
「ん? 最初に言っただろ。俺はただ臥龍書院の書生として、千集院隼人の計画を破壊する為にこの学院へ送り込まれてきた刺客、名称はドラゴンゼロだって」
ゼロ……聞いてない。確か臥龍書院は一に近いナンバーを与えられたドラゴン程能力が高く、数字の低い者ほど序列が高いと蓮が言っていた。だが一以下のゼロがあるなんて、野崎は何一つ聞いてない。恐らく蓮も知らないのではないのか。
ということは……?
野崎はハッとして綾人を見上げた。
「あんたが……臥龍書院のリーダーってこと?」
綾人はゆっくりとパイプ椅子に腰掛けて、膝に両肘を置いて両手を合わせ、弄んでいる。
そして虚無の瞳は、ジロっと野崎の怯え引きつった顔面を捉えた。
「さあどうする、野崎。お前の返事を聞かせてくれよ」
「……ねぇ、どうして、どうして雷電が書いた続きまで分かるの? 雷電はあんたたちが帰ったあとも原稿の続きを書いていたのよ!?」
「原稿とプロットを全部記憶して、残りは推測した。嵐の文体、思考、運指の癖とか文脈の流動から。それだけだ。それにこの三ヶ月の合間に嵐を観察する機会は幾らでもあったからな」
実際には綾人が復刻させた小説は、全文をコピーしたという訳ではなく、地の文などの微細な部分が変わったりもしている。が、そもそも野崎には全文が頭に入っている訳ではないので、その違いに気づけない。
「そうだ野崎、嵐が直前まで書いた原稿が何処までか覚えてるか? 覚えてるなら教えてくれ。書きすぎた部分は削除する」
「信じられない……あんた……どんな生活してきたのよ?」
「信じろ。いま目の前で起きた事実を受け入れろ。じゃないとお前はこの先一生、前に進めない」
ただ綾人の前で野崎は放心している。綾人は滔々と言葉を吐き出していく。
「なぁ、どうだ、野崎。自分の過去が悔しいか。自分の境遇が恨めしいか。どうして自分だけがこんなに苦しい想いをしなくてはいけないのか……そう思うか?」
「は? ……あんた何言って」
「俺だって同じだよ。いや俺たちだってみんな同じなんだ。誰かのせいでこうなったのかもしれないし、その誰かがまた別の誰かなら、また違う未来があったのかもしれない。いやそうであってくれ。そう、死ぬほど考えるよな」
野崎の瞳に薄っすらと涙が滲んでいく。
「確かに起きてしまったことは仕方ない。未来はいつか現実になるんだ。現実はこの瞬間に過去になる。どれだけ這いつくばったって過去には戻れない。だが過去を作るのも同時に今の自分だ。右往左往しようが結局時がお前を待ってくれない。だから嫌でも前を向くしかない。例えお前が後ろを向いてようがな。残酷なんだ。だから考えろ。今俺たちに出来ることはなんだ、現在と過去の自分には何が出来て何が出来ない、全部、考えるんだ。誰かが考えるのをやめろと言っても考え続けるんだ。考え抜いた先にしか、選択はない」
「ほ……本当に……」
「世の中は単純な物事ほど複雑に出来ていて、複雑な物事ほど単純に解けるようになっている。今回は後者だ。信じろよ。自分を」
「宮風……あんたがさっき言ってた皆で、卒業して、アタシが自由に生きて……いいの?」
「逃げるな。最初に言っただろ? 選べ。失敗しても成功しても悔いのない方を。全部、自分で」
「……でも、やっぱり、そんなの無理に決まってる……」
「どうして、そう思う?」
「私はもう、千集院からは逃げられないのよ! だけどあんた達を退学にすればアタシは全てを精算して自由になれる! だから宮風、あんたが退学になってよ……」
その語尾は弱く掠れ、何もかも拒絶するような諦念さを孕んでいた。
「それは無理な願いだ。他のドラゴンにでも頼んでくれ。あのな野崎、仮にお前たち特進クラスが臥龍書院を退学に追い込んだとして、その先に自由への翼なんて本当にあると思うか?」
「え……?」
「翼を失ったドラゴンが飛べないように、お前たちはそもそも飛び方を知らない。最初から籠の中で飼われた雛鳥。まだ餌を与えてもらっている。狩りを知らない。闘いを知らない。筆を握り命を賭ける意味も知らないまま飼われ続ける。それがお前たちが飼われている一番の要因だとも気付かずに」
――アタシに翼はないから。
「そ……そんなのとっくに気がづいてるっ! でも気づいたらアタシにはそういうレールしか用意されていなかったっ!」
「だから俺たちを退学に追い込んでチャラか? フッ、安いな。その後はどうするつもりだ。晴れて卒業して千集院の専属作家になってまた飼われ続けるのか。お前は何の為に小説を書く。金か? 金を得て何をする? お前は一体何の為に筆を握るんだ。ただ教えられたからか。それが決められたレールの上だからか?」
「うっさい! うっさいっ! あんたに……あんたなんかにアタシの何が分かるのよっ!」
「何も分からない。だから話せ。お前が何を見て、何を感じて生きてきたのか。どうして筆を握らなくてはいけなかったのか」
「どうしてあんたなんかに! それに飼われているのはあんたも同じでしょ!」
「あぁ。だが俺はお前みたいに大人しくレールの上を歩くつもりは微塵もない」
「それが先言ってた戯言? あんたの戯言にアタシを……巻き込まないでよ……」
「お前にとってもいい話だと思ったんだがな」
「どこが……どこがよ……アタシに自由なんか……」
「それだよ」
「え」
「お前、筆を握っている時、一度だって楽しんだことないだろ?」
「そんなの……あんたにはあるの?」
「いいか野崎、全部吐け。吐き出せ。今ならお前を受け止められるかもしれない。飛び方を教えることが出来るかもしれない。お前にとって小説とは何なのか、俺に教えてくれ」
野崎は綾人の目を見る。虚空。恐ろしいほどに何もなかった。内心で何を思っているのかはともかく今この男の表情に感情の色はないように見える。
でもその眼差しは真剣そのものだった。少なくともこの男は自分の話を聞いて嗤うことはないようにも思える。
観念するようにへたり込んで下を向いた野崎。
「アタシは……アタシは……」
しばしの沈黙のあと、ぽつぽつと言葉を零し始めた。
「許されるなら外の世界が知りたかった……」
その声は小刻みに震え、握った拳も弱々しいものだった。
野崎は自分の過去をゆっくりと正確に回想していくように話していく。溜まっていた泥を、誰にも言えずにいた積年の悶々を吐き出すように。
綾人はじっと目を瞑り聞いていた。
一通り喋り追えた野崎の頬には涙が伝う。
「だから……アタシには小説しかなかった。だけど本当は小説の脇の脇に出てくるような普通の人たちのような人生を歩みたかった……友達とも遊びたかったし……彼氏も出来たり……結婚もしたい……親になって、そんな普通の、未来が欲しい……」
「何故だ。お前にとって家族は恐怖の対象ではないのか? 自分の子供も同じように不幸に晒してしまうのではないのかと考えないのか?」
「それでもアタシにとって家族は……良いものだったから……その時読んでいた小説も全部……好きだったから」
「そうか……」
綾人は少し考えたのちにまた喋りだした。野崎には片鱗を見せる前の少しだけ抑揚のある綾人の声に聞こえた。
「まぁ外に出れば出版関係の雑務は山ほどあるだろうな。だから今は死ぬ気で書け。そして卒業しろ。そしたら趣味で旅でもなんでも見つけて好きにすればいい。それでもまた書きたくなったら筆をとれ。何だかんだ言ってもお前も物書きなんだろ」
野崎は床に崩れた。か細い声が掠れ、こだまする。
「本当に……そんな、本当に……そんな未来が……あっても……いいの?」
「ああ、それを実現させるのも全部お前次第だ。いま俺と手を組むか、組まないか。それと恋人はおいといて、もう既に友達はいるんじゃないのか?」
野崎のレンズに一通のチャットが届いていた。
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