野崎栞菜


 ・早川茉希歩

『栞菜ちゃんお疲れ様。体調大丈夫? ちゃんと栄養あるもの食べなくちゃ駄目だよ。

 あとね、少し気が早いんだけど今度、無事に試験が終わったらB班の皆でご飯食べに行ってゲームセンターとかショッピングとか遊びに行こうと思うんだけど……栞菜ちゃんもどう? 

 栞菜ちゃんがいなかったら服選びとかセンスなし男子に聞いても仕方ないし、ね?

 あ、今、もうちょっと試験のこと心配しないさいよとか思ったでしょ。もう知ってるんだからね。大丈夫だよ、栞菜ちゃんすごいプロット作り頑張ってくれたし、私もキャラ作り頑張ったし、B班みんなで頑張ったんだから。あの作品は絶対に面白くなる。あーちゃんも本気出せば結構凄いんだから。あとこれからも色々と栞菜ちゃんのすごい技術を教えて欲しいなあ。

 ごめん長くなっちゃった。じゃまた返事聞かせてね。おやすみなさい』


 野崎の瞳からぽたぽたと零れ落ちる涙は、床を打つ。震える上唇を噛み締め、洟を啜る。奥歯が震える。


「あぁ……ア、アタシは」


 何気ない親子三人の日常。売れない街の小さなボロボロの本屋。友達のいない日々。小説と家族の時間だけが唯一の楽しみだった。炎上する真っ赤に燃えた家と両親。ここから野崎栞菜の全てが変わった。楽園の庭に閉じ込められた特進クラスでの苦しき孤独の日々、学院での三ヶ月間の日々、全てが走馬灯のように蘇る。


「……あぁ……あぁ……」


 野崎は泣きわめいた。いつからか時が止まってしまった子供のように。


「本当にアタシ、ごめんなさい……茉希歩……ごめんなさい。アタシとんでもないことしようとした……茉希歩……雷電……みんな……許して……」

「許すも何もここに嵐が書いた小説はちゃんと残っているんだ」

「……宮風……こんなアタシが……アタシなんかでも、許されるのなら、幸せが、欲しい……」


 綾人を見上げるその顔は泣き腫らし、鼻水を垂らし、化粧が崩れ落ちた野崎の本当の顔。


「今後、俺の動き次第ではどうしても二人を守りきれない時が必ずくる。その時はお前が友達を、茉希歩を守ってやれ」


 これは重大な裏切り行為だ。蓮はもちろん、隼人も特進クラスも決して彼女を許さないだろう。仮にもここまで育てて貰った親に背く愚かな不届き者には、いずれ裁きが下されるだろう。

 この手を取るのは果てしなく続く茨の道かもしれない。黙って命令に従う楽園の日々の方が断然楽で安全だ。

 きっとさらなる困難や苦しみが彼女を待ち受けている。

 考えなければいけない。考えて自分で選ばなくてはいけない。もう一度下を向き、目を瞑り、五分間沈黙した。


「立てよ、野崎」


 野崎は立ち上がる無表情の綾人を見上げた。


「この手を取るのも払うのもお前の自由だ。だがら、その先の未来を変えるのもお前次第だ」


 そう言って手をゆっくりと差し出す綾人。


「人生を変える為に筆をとれ。そして、俺と共に闘え」


 こくりと頷いていた。冷たい手を握る。無様に泣き腫らし充血した瞳には、闘志の炎が静かに揺らいでいた。



「起きろ。起きろ、嵐……帰るぞ」


 午後22時。閉館時間となったので、プレハブ塔を出てくださいとアナウンスが流れている。


「う……ん……あ、れ……僕、綾人、くん?」

「起きろ。最後に進捗確認しようと連絡しても一向に出ないから気になって来てみたんだ。帰るぞ」


 嵐はまだ状況が掴めていないのか、目を擦っている。


「寝ぼけすぎだ嵐。ほら」


 綾人はさり気なく眼鏡を差し出し嵐はもぞもぞとお礼を言って装着した。


「あ、う、うん……寝ちゃってたんだ……あっ、原稿!?」

「もう終盤間近なんだろ? なら大丈夫だ。プレハブ塔が使えない日に原稿書き溜めて、残り使える二日で完成させろ。あとは少し休め。追い込み過ぎだ」


 扉がスライドして、教員の衣嶋織理が「退出しろ」と冷徹な声をかけてくる。


「出よう、嵐」


 嵐は前後記憶がまだぼんやりとしたまま、綾人のあとに続き部屋を出る。ふと眠る前に誰かが居たような気がした。はてと、首をかしげつつ綾人が忘れずに持っていてくれたスポーツ飲料を受け取る。


「そうだ! 野崎さんが」

「野崎がどうかした?」

「このジュースを差し入れしてくれたんだ。今度ちゃんとお礼言っとかないと」

「そうか、案外あいつも気が利く奴なんだな」


 嵐はジュースを一口飲んだ。乾いた喉にはやはり冷えた飲み物に限る。

 夜空で月が燦燦と輝いていた。


 6月29日の日曜日。

 B班の五人は専用部屋で真剣な面持ちを浮かべて、綾人が最後に原稿を読み終えるのを待っていた。

 嵐が原稿を一からスクロールし、横から覗き込んだ綾人が最後のページまで読み終えた。


「ど、どうかな……?」


 心配そうな表情で嵐は聞く。


「ああ、面白いんじゃないか?」

「だって、皆」


 嵐は嬉々として後ろに座っていた三人に告げる。


「俺は名作の完成だと思ったぜ」

「それは言い過ぎ。でもまぁ面白かったとアタシも思う」

「だよね? うちのあーちゃんやっぱり天才だよね?」

「浮かれすぎ茉希歩。じゃ宮風のオッケーも出たことだしさっそく提出しましょ」

「あとは神のみぞ知るってやつか……ああなんか俺まで緊張してきたぜ」


 嵐は専用サイトにアクセスし、B班の小説「逆行世界―1598番目の助手―」という作品を提出した。

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