プロローグ
学院長の碇恭也は、扉の前で一度立ち止まった。胸ポケットに手を伸ばし、小さな手鏡を取り出す。
金色に染まった髪を丹念にかきあげる。最後に微笑を手鏡で確認してから扉をノックした。
「失礼します」
叩いた拳が微かに震えているのを感じて、碇は自分が想像以上に緊張していることに気づく。
大丈夫、自分は今までぬかりなくやってきたと、何度となくかけてきた呪いを自分に言い聞かせる。
「入り給え」
奥から男の低い声が聞こえ、扉を開けた。
「失礼致します」
「やあ、碇君。いや、碇学院長かな」
「お久しぶりです。千集院理事長」
碇を陽気な雰囲気で出迎えたのは千集院隼人。年は四十後半とも五十代にも見える。
端正で気品を感じる顔と引き締まった体は、年齢よりも若くエネルギッシュさを感じる。
千集院の終始穏やかな微笑みを受けて、碇はより緊張が高まった。室内の窓は、全面ガラス張りになっていて、都の景色が広がっている。
「やあ、そこに掛け給え」
碇は指定された白いソファに腰掛けた。予想以上にふかふかしていて、背中が包み込まれそうになったので慌てて背筋を伸ばす。
「急に呼び出して済まないね」
「いえ、そんなことは」
美しいブロンドの秘書がお茶をローデスクに置いて「ゴユックリ」と流暢な日本語を話した。
自分がどうして呼ばれたのか。碇は千集院から連絡を受けた日から気が気でなかった。秘書が立ち去るのを確認し、すぐさま口を開く。
「それで、どうされましたか。理事長が私をお呼びになるなんて」
「なに、そんなにたいしたことでもないんだ。たまには部下とのコミュニケーションをとることも大事だと思ってね」
千集院はゆっくりとお茶を啜り、軽く微笑する。
「どう、最近、みんな元気?」
「はい、それはもう……」碇は精一杯の微笑を取り繕った。
「碇君も元気そうだ」と千集院は一人で笑い、綺麗な顎を撫でる。
「卒業生は、どう?」
碇は瞬時に、近年のデータベースを記憶から引っ張り出した。
「ええそれはもう。一期生以降の活躍はもちろんのことでありますが、やはり近年は六期生、七期生たちが目覚ましい飛躍を見せています。来栖、永瀬、難波などは、さっそく各々のジャンルでベストセラーを叩き出しています」
「それで」
「その中でも特に、もう理事長もご存知かとお思いますが、両方姫と空緒飛華が二ヶ月前の芥山、直草を受賞し、話題にもなりました」
「ああ、それはもちろん、私の耳にも聞き及んでいるよ。確か、彼女たちは学生時代に師弟関係があったのだろ?」
「ええ、空緒は一年の時に挑んだ文豪戦で両方に敗れて以来、師弟関係を結んだ、と聞いております」
「ほぉ、それは実に美しく、大変喜ばしいことだね。そのせいか我が校の今年の倍率がとんでもないことになったとか」
「ええ、史上最高倍率でして、今も事務局がてんやわんやの状態でして」
碇は愛想笑いを見せながらも、千集院の漆黒の瞳を時々観察していた。
「へぇ……いいじゃないですか、えぇ。あ、ああ、そう。そうだ。それはそうと碇君」と言って千集院は口元を緩ませていた。
きた、と碇は身構える。
「あの子は? 例の、彼女」
「彼女……と言いますと」予想外の単語に碇は、一瞬だけ狼狽える。
「あの、共感覚ガールだよ」千集院は鋭い瞳で碇を厳しく定めるように見た。
「ほら、8番目の」
碇はその切り替わりを見て、千集院の本命を悟った、のと同時にほっと安堵を覚えた。
「あぁ、その、騰波ノ君は……」
「そう、トバノ、騰波ノ鳴君」
「それが騰波ノ君は現在行方不明でして……。先月も出版社から幾つもの執筆依頼が事務局あてに届いていたのですが、噂によると全部放棄して海外に放浪したとかなんとか……」
それを聞いた千集院は些か愉快に笑う。
「やはり面白いね彼女。まあいいさ。今はね。いずれ彼女には、もっと大きな舞台で派手に暴れてもらわなくちゃいけないからね」
ため息をついた碇は一口お茶を啜った。
「そうだ碇君。今年の準備はどう?」
「あ、はい。それはもう着々と進んでおります」
「それは良かった。なんといっても今年は千集院創作芸術学院にとって新たなステージになるからね。それも卒業生たちが頑張ってくれたお陰だ。君もそう思うだろ?」
「はい、ごもっともでございます」
そうして幾つかの世間話を挟んだ碇は、特に自身についての言及ではないとわかり安堵の気持ちのまま、秘書が開けてくれた扉から退出しようとした。
「ああ、そうだ碇君」
心臓が飛び跳ねるような気がした。碇はなるべく自然に千集院の方へ振り返る。
「どうされましたか、理事長?」
心臓の音が千集院に聞こえていないか、気が気でなかった。
「君も聞いていると思うけどね、今年の特待生推薦枠に私の息子も入っているんだよ」
「承知しております」助かった、碇は嬉しさのあまり恭しくお辞儀をする。
「容赦なく揉んでやってくれ」
碇は再度、頭を下げ、素早く退出した。
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