02


 胡粉ごふん色の街並みに吹く風は乾燥している。


 太陽が中天に達した昼どき。朝はややひんやりしていた空気も日差しで暖められ、湿気も飛んでぽかぽかと心地よい。

 すり鉢状の円い集会所は人々の賑わいで満ちていた。周囲の道沿いには露天や屋台が並び、軽食から雑貨までこまごまとしたものが売られている。

 中央へ向かって下がる階段型の座席に腰をおろしたニキアスは、同じく隣へ座ったアルシノエに道中で買った軽食を手渡した。薄く焼いた生地で鶏肉やチーズ、葉野菜を包んだ屋台料理だ。


「午後からは出陣だけ?」


 筒状に巻かれたそれを半分ほど食べたころ、アルシノエがニキアスにそう訊いた。アルシノエには午後からあと一度の出陣と報告書作成の予定が入っていた。

 ニキアスはたっぷり入った葉野菜を咀嚼そしゃくしつつ頷き、飲み込む。


「いいや、それが終わったら神殿で事務処理だ。こう天気が良いと眠くなりそうだな」

「ニキ、最近事務仕事多いね」


 薄めた葡萄酒で口を湿らせて、ニキアスは顔をしかめながら笑った。露天で買った葡萄酒はかなりすっぱい。安物の葡萄酒はたいていそうだが、たまに飲むぶんには悪くない味だと、ニキアスは思う。


「確かに二位に上がってから増えたが、最近は特に多いな。大方、よそで処理しきれないぶんが回ってきているんだろうが」


 神官として、闇蜥蜴やみとかげとの戦いが本業だと思っているニキアスだが、位が上がれば管理者としての役割を求められるのは当然のことだろうとあまり気には留めていなかった。


「まあ、事務仕事も嫌いじゃない。父さんにいろいろ教えてもらっているしな」


 ニキアスの実父は絶えぬ灯火の家ヒュペルファロスで文官として勤めている。実家には書籍のたぐいも多く、幼いころから読み書きの、それもかなり高度な手解きを受けてきたニキアスにとって、文書を扱うことはそう苦痛な仕事ではなかった。


 それにしても静かだな、とニキアスが隣を窺うと、アルシノエはこちらに耳を傾けながらも熱心に昼食へかじりついていた。

 戦場で動き回ったのならさぞ腹が空いたことだろう、とおかわりを買う算段をつける。ニキアスもひとつでは腹が満たされるほどではない。食べすぎては午後に差し支えるが、空腹でも集中が途切れてしまう。

 焼き目のついた鶏肉はまだ温かい。表面のとけたチーズと、まぶされた檸檬れもん果汁だけが味付けの簡素な軽食だが、集会所周りに昔からある屋台の品だ、ふたりにとっては食べ慣れた味だった。

 横並びで黙々と食べ進め、最後のひとかけを口へ放りこんだニキアスは木製の器をあおった。

 葡萄酒もついでにもう一杯買ってこよう、と考える。

 立ち上がったニキアスはまだひとつめを食べ終えていないアルシノエに笑いかけた。


「もうひとつ食べるだろう? ふたつ買ってくるが、いいか?」


 訊かれたアルシノエは咀嚼を続けながら首を縦にこくこく振った。

 戦場では凛々しくふるまっているのに日常の動作はまだどこか子どもっぽい幼馴染を微笑ましく感じて、ニキアスは立ち上がりざまにその紅く艶やかな髪を一度だけ撫でた。


     *


 城壁の上から闇蜥蜴やみとかげを攻撃し、負傷者が帰還した際には治癒を行うというのが、日頃のニキアスの業務であった。その合間には人員の割り振りや事務処理など管理職らしい仕事もこなしている。

 こういったことは通常文官の仕事であるのだが、高位の官になると所属にかかわらず多少は行わなければならないのだ。


 今日は三日ぶりに現場での任務を行って、ニキアスは多少すっきりした気分だった。

 溜まった加護力を放出できる現場仕事は、机仕事で凝り固まった体をほぐすには丁度いい。

 やはりたまには体を動かさないといけないな、とニキアスは出不精になりかけていた自分をいさめた。

 しかしニキアスの本日の業務はこれでおしまいではない。

 神殿へ戻り報告書を作成したのち、午前の続きの事務処理を行わなければならないのだ。


 ニキアスが神殿の執務室でペンを走らせていると、扉がこつこつ叩かれた。つたと花を彫り込まれたこの扉は、二位以上の官の執務室にしか使われていない。


「はい、どうぞ」


 入室を促すとすぐに扉が開く。入ってきたのは六割がたが白く色落ちした金髪を短く切り揃えた老年の神官だった。それを見たニキアスは腰を浮かす。


「レオス一位。ご用でしたら呼んでくだされば……」

「いちいち呼びつけるより私が動いたほうが早いだろう。書類を持ってきた。これの処理も頼む」

「はい。かしこまりました」


 机に置かれた紙束の厚さに内心憂鬱ゆううつさを感じながらも、ニキアスは神妙に頷いておいた。この生真面目な老神官は余計な口を叩かれるのを好まないのだ。


「それと」

「はい」


 まさかまだ追加の仕事があるのか。うんざりしながらそれを表情に出さぬよう、ニキアスは細心の注意を払った。至って真面目な顔を保つ。

 歳に見合わずきびきびとした動きで扉の方へときびすを返しながら、老神官はこちらの顔色など窺いもせず言い放った。


「カルカスが呼んでいる。早めに顔を出してやってくれ」


 この老神官は――マカオン・レオスは、神殿長すら呼び捨てにできるほどの古参なのである。


     *


 その日、業務を終えて帰宅しようとしたアルシノエを、ニキアスが道中で捕まえた。庶民向けよりは少しばかり質の高い料理を出す店へと連れていかれる。


 木戸を押し開けて入店するニキアスの後ろについて室内へと入りながら、なるほどニキが好みそうな店だな、とアルシノエはひとりごちだ。


「ねえニキ」

「うん?」


 席について檸檬れもんの混成酒とチーズをいくつか注文したニキアスに話しかける。

 肘をつき、手の甲に顎をつけたニキアスが口角を上げて返事をした。店内に配置された蝋燭ろうそくが白い肌に陰影をつくる。


「わたし、今日はうちで晩ご飯を食べる予定なんだけど……」


 不満げな様子を見せるアルシノエに対して、ニキアスはむしろ機嫌がよさげだった。脚をゆったり組み換えてちょっと斜めに座り直す。


「食事していくつもりはない――ちょっとな、おまえの耳に入れおきたい話があるんだよ」

「耳に入れておきたい話?」


 アルシノエが先を促そうとすると、ニキアスは手で制した。注文した品が来るまでは待てということらしい。

 選んだ席も隅の方だし、もしかしてあまり聞かれたくない話なのかもしれないな、とアルシノエは考えた。

 しばらくして酒の小瓶と杯、チーズを乗せた皿が運ばれてくる。

 勧められるままに甘酸っぱい檸檬の酒をめて、アルシノエはもう一度話を促した。


「それで、なんの話なの?」


 再度の催促を受けたニキアスはかじっていたチーズの欠片を一旦皿に戻した。


「これはカルカスさまから聞いた話なんだが……」

「か、カルカスさまって、神殿長のこと!?」


 さらりと出てきた名前にアルシノエはぎょっとする。そうそう話題に出せる相手ではないはずだが、しかも本人から聞いた話だなんて。

 幼馴染が神殿長と個人的な交流をいくらか持っていることは把握していたアルシノエだが、ニキアスの一言でもしかして親密度を見誤っていたのだろうかと思い至る。

 普通は名前で呼ばないし、呼べる相手でもない。

 しかしニキアスは涼しい顔のまま、アルシノエがとっさに口にした確認の言葉に頷く。


「そうだ。絶えぬ灯火の家ヒュペルファロス神殿長、カルカス・フロロースさまに聞いた話なんだが」

「う、うん……」


 アルシノエは杯をぎゅっと握り、真面目な顔で続きをと頷いた。


「遠征が行われるらしい」


 その一言を聞き、蜂蜜色の目がまたたく。髪と同じ紅色の睫毛まつげをぱたぱたさせたアルシノエは意味を呑み込むためにかしばらく沈黙のまま瞬いていた。数瞬おいてようやく口を開く。


「遠征って、どこに、だれが……?」

「誰かはまだ決まっていないらしい。だが、俺かシノか、どっちかは出ることになるだろうな。場所は」


 一拍空けたニキアスの目をアルシノエが凝視する。彼の目は真昼の空のようだ、とアルシノエは思った。それも夏の、色が濃くて鮮やかな空だ。


「場所は――闇蜥蜴やみとかげの巣だ」


 アルシノエはまたしばらく黙ってまばたきをした。驚きのあまり言葉が出ないでいるアルシノエを、ニキアスが真剣な顔で見つめる。

 少し間が空いて、ニキアスはふっと表情を緩めた。


「……驚いたか?」

「お、驚いた、なんて。そんなものじゃないよ……! もしかして、冗談なの? 違うよね?」


 長く付き合ってきたアルシノエにはニキアスの言ったことが真実であるという確信があった。幼馴染が嘘をつけば、いくら鈍いアルシノエでもなんとなく気づく。

 さっきのニキアスの言い方は、本当のことを言うときのものだった、とアルシノエは判断した。

 つまり、情報自体が間違っていない限り、巣への遠征は確実に行われるものと受け取っていい。

 案の定ニキアスはすらりとした指先で薄黄色の硬いチーズを転がしながら頷いた。そのままひとかけ口に放り込む。


「さすがに、そこまで壮大な冗談は言わないさ。巣への遠征は本当にある」

「そんな……」


 アルシノエは大きく息をついた。


 闇蜥蜴の巣は西の山脈のふもとにあるという、奥深い洞窟だ。過去数百年の歴史を紐解いても巣の最深部まで突入したという記録は残っていない。

 アルシノエの記憶が正しければ、最後に遠征が行われたのは百年以上前。珍しい双子の加護持ちがいたころだったはずである。


 しかし……。


「前回の遠征では、二百人近くいた遠征部隊が全滅したって、確か歴史の教科書に載ってたはずだよ!」


 かろうじて声量を抑えた、けれど悲鳴のような声をあげたアルシノエの手の甲を、ニキアスが落ち着けと言わんばかりに軽く叩いた。とんとん、と拍子をつけてなだめられ、アルシノエは一度深呼吸をする。


「確かに。百五十四年前の遠征では、武官と神官を揃えた百九十二人の連隊が全滅した。帰還者もいたにはいたが、帰ってきて数日と経たないうちに死んでる。あそこはたぶん、ただの〝巣〟なんかじゃないんだろうな」


 不安げな表情で覗き込むようにニキアスを見たアルシノエに、彼はゆっくり笑いかけた。視線を合わせて、大丈夫だ、と目で伝える。


「でも、そのころと今とじゃ状況が違うだろ。百五十年前はまだ街道もなくて、都周辺の駆除も進んでいなかった。隣の都に行くのさえ命懸けだったようなころだ」


 西都イポミアを含め、この地にある四つの都はすべて街道で繋がっている。

 街道沿いの闇蜥蜴は優先的に駆除されるため、闇蜥蜴の動きが鈍る日中であれば、一般人でも比較的安全に城壁の外を移動することができる。

 たとえばイポミアから北都ピクラリダまでは、馬を使えば最短で三刻半ほどで着くだろう。

 この街道が整備され始めたのが百五十年前。完成したのはほんの七十年前だ。


「今は日常的に闇蜥蜴を間引いているし、巣の付近にいる個体も当時よりずっと少ないはずだ」


 それに、とニキアスは続けた。


「今は俺もおまえもいるだろ?」


 いつも通りの自信に満ちた笑みを受けて、アルシノエもやっと表情を緩める。幼馴染の揺るがない態度は今回もアルシノエの不安を退けてくれた。

 アルシノエは感謝の意を込めてニキアスにしっかりと頷き返す。


「そうだね」


 わたしの力で誰かの命を救うことができるなら、とアルシノエは考えた。


 もしもわたしが人間ひとを救えるのなら、この特異な性質をきっともっと受け入れることができるだろう、と。

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