第一章 光の加護者Ⅰ

01


 世界に光が差す瞬間は、一日の中で最も清々すがすがしい。そうアルシノエは思う。


 冷え冷えとした冬が終わりを迎え、春の到来とともに新しい年が始まってしばらく。

 夜明けの時刻は日に日に早まっている。比例して昼の時間が長くなるのは、この地に住む人間として単純に有り難い。


 イポミアの都を囲う分厚い城壁に薄明の光がうっすらと差しかかり、一日の始まりを告げる鐘がその壁の内側で鳴り響いてから一刻半ほど。

 外門のひとつである西門の前には数十人の人々が集まっていた。


 ある者は濃紺の装束、またある者は白い法衣を身に纏い、まだ太陽も顔を覗かせていない早朝からきびきびとした動きで職務に取り掛かっている。

 ここで働いているのはみな絶えぬ灯火の家ヒュペルファロス神殿に籍を置く者たちだ。

 濃紺の装束をまとうのが武官、白い法衣は神官。

 神殿には他に事務処理などを担当する文官も存在するが、彼らが現場まで出てくることはほとんどない。


 彼女、アルシノエ・クロニスも濃紺の装束の上から三位の位階を示す檸檬れもん色の帯を締め、詰所の前に立って隊員たちへ指示を出していた。女性にしては背が高く、四十人を超える男女の中でもひときわ目立つその髪色はくれない

 中隊を率いる指揮官にしてはまだ若いが、凛々しい表情からは立場への引け目は感じられない。


「――城壁さま」


 そんなアルシノエのもとに、ひとりの青年が歩み寄ってくる。

 彼女と同じ色の帯に同じくらいの背丈。ほんの少し年上に見える穏やかな面差しのこの青年の名はエウメロス・イオアニディス。

 アルシノエの補佐役、副隊長を務めている。


「城壁さま、神官たちの配置が完了いたしました。そろそろ開門いたします」

「ありがとうございます、副隊長」


 エウメロスの報告を聞いたアルシノエは隊員たちに出発の指示を出した。

 これから彼らは、城壁外へと出陣するのだ。



 絶えぬ灯火の家ヒュペルファロス

 それは、神々の恩恵たる〝加護〟を与えられた者たちが集う組織。

 この地に蔓延はびこ闇蜥蜴やみとかげから人類の生存域を守るため、日々戦いを繰り返す加護持ちたちの集団である。


     *


 アルシノエたちが西門をくぐると、平原は昇りはじめた朝日に照らされて明るく薄紅がかっていた。

 西の果てには山脈が連なり、きわが白く染まっている。中隊の上には城壁の影が大きく覆いかぶさっていた。


 彼らは一体となって、事前の打ち合わせ通りの動きで機動していく。

 その目指す先にうごめくのは闇蜥蜴。

 名前の通り闇が滲んだような漆黒の鱗と、ずんぐりした四つ足を持つ不気味な怪物。彼らが倒すべき積年の仇敵。


 総勢四十八人の武官たちが闇蜥蜴を取り囲んで散開した。

 この敵を一体倒すために、最低でも十二の戦力が必要だ。平時ならば大事を取って二十四。

 凡人よりも高い身体性能を持ち、加護の力を操る加護持ちたちでも、闇蜥蜴と戦うにはそれだけの戦力を必要とするのだ。


「――総員、攻撃始めっ!」


 アルシノエが号令を叫ぶ。

 それに応えていくつもの加護が飛んだ。

 闇蜥蜴の板金鎧のように分厚い鱗を、風の鞭や火の槌が何度も叩く。


 加護はその特性によって分類ができる。

 近接・遠隔型、戦闘・支援型の二軸で判別され、武官には近接戦闘型が多い。アルシノエもその部類だ。


 しかしアルシノエにはひとつ、特異な点があった。


 彼女が二十二の若さで中隊長に任命された理由。それは加護の数である。

 加護はひとりにひとつが常識。多くの辛苦にあえぐ人々を憐れみ、神が与え給うたのが加護だ。

 その神々からの恩寵をふたつも身に宿す”〝加護持ち〟。

 アルシノエは加護が発現した幼いころから、都中の人々の期待を背負って生きてきた。


 そのふたつの加護のうち、ひとつが――。


 宙にかざしたアルシノエの手のひらから薄紅色に光る壁のようなものが現れる。


 暁光の壁盾アステリ・アスピィダ


 近接支援型の、防御に特化した光の加護である。四頭立ての馬車にも匹敵する力を持つ闇蜥蜴の突進を半歩たりとも引かずに受け止める。

 突撃の勢いを殺し切れず一瞬動きを止めた闇蜥蜴に、アルシノエは翳したのとは逆の手に握った戦棍を、もうひとつの加護を発動させながら振り下ろした。近接戦闘型。白兵距離から放たれる破砕攻撃。


辰星プテラ――落落ルキフェルっっ」


 砕けた鱗の間を、隊員の槍が見事に刺し貫く。敵が完全に沈黙したのを確認し、アルシノエたちは新しい標的へと矛先を向けた。


     *


 出陣を終え、城壁内へ帰還したのち、まず行うことは被害の確認である。

 傷を負った者はいないか、装備が破損してはいないかを改めて確認し、それを以て次回の編成の参考とする。負傷者や装備の整わない者を戦わせるわけにはいかないからだ。


 ただし、アルシノエの率いる中隊においては、人員が入れ替わるようなことは滅多になかった。


「さすが城壁さま! あれだけの攻撃をすべて防いでしまわれるとは……!」

「本日も負傷者はおりません。城壁さまのご加護のおかげです」


 隊員のひとりが頬を上気させてアルシノエを見た。傍のもうひとりも、こちらはやや落ち着いた調子で自分たちの隊長を見上げる。

 その視線を受けて、アルシノエは気恥ずかしそうに微笑んだ。


「いえ、みなさんが力を尽くしてくださったおかげです。午後からもよろしくお願いしますね」

「もちろんです、城壁さま!」

「出陣お疲れさまでございました。午後からも我々にお任せください」


 隊員たちの気合いの入った声に見送られながら、午前中の任務を終えたアルシノエは中間報告のため、詰所を出て神殿へ向かった。

 それにエウメロスが自然な動作で従う。


 アルシノエとしては中間報告程度に供などいらないと思っているし、それを毎度伝えているのだが、そのたびに「城壁さまをおひとりにするわけにはまいりません」だの「私は城壁さまにお仕えするのが務めなのです」だのと繰り返されて、そろそろ諦めたほうがいいのだろうかと迷っていた。


「あの、副隊長」

「はい、城壁さま」


 斜め後ろをしずしずとついてくるエウメロスの様子が気になって、アルシノエはそっと背後を窺った。声をかけた瞬間にふわっと微笑まれて言葉に詰まる。


「疲れて、いませんか……? あの、昼の報告は口頭だけですし、午後まで休んでいても……」

「いえ」


 エウメロスは静かな、けれどきっぱりとした声でアルシノエを遮った。

 控えめながらも押しの強い態度は相変わらず、流されやすい質のアルシノエにはどうにもやりづらく感じられる。熱心さは感じるが、正直に言うと少し苦手だ。


「城壁さまの補佐を行うのが私の務めですから」


 しかしそう言って微笑みを向けられると、結局アルシノエは何も言い返せないのだった。

 気づかれないようにため息を吐きながら、表面上はきちんとした姿勢を保ちつつ大通りを進んでいると、二区の露店街へ差し掛かった。


 西二区と南二区の間を貫く大通りには、生活雑貨や食料品を販売する露店が右にも左にも連なっている。

 昼前の今は昼食を求める人だかりで賑わっていた。高層式の集合住宅にはかまどがない。温かい食事をとろうと思ったら買い求める必要があるのだ。


 午後の出陣までは間があるので、昼食は報告のあとにしようとアルシノエは決めた。これだけ人が多いと買い物ひとつにも時間がかかるだろうから。

 気持ちを切り替えて報告内容を脳内でまとめ始めたアルシノエに、街頭から声がかった。


「フォスフォロスの城壁さま! 戦帰りかい?」

「あ、はい。今帰還したところで……」

「城壁さまはいつ見ても綺麗な紅髪だねぇ、本当に星神さまのようだよ」

「は、はい。ありがとうございます」


 いづれも親しげな口調だが、知人というわけではない。

 噂になる程度の実績と目立つ外見特徴を併せ持つアルシノエは、日頃からよくこうして他人に話しかけられるのだ。


「相変わらず凛々しいねえ! さすがフォスフォロスさまのご加護を受けた方だ」

「わたし城壁さまを拝見するのって初めてだわ……!」

「ねえ見た? 城壁さまって朝陽みたいな目をしていらっしゃるのね」


 大通りに数歩足を踏み入れたばかりだというのに四方から声をかけられ、取り囲まれて、アルシノエの歩みは遅々として進まなかった。

 もちろん彼女の身体能力をもってすればすべて振り切ってしまうこともできるのだが、律儀で押しの弱い性格が災いして強く出ることができないのだ。いちいち返答をしてしまいすらする。


 そうやってじりじりと大通りを東へ移動するアルシノエたちの集団に、もうひとつ別の集団が接近してきた。

 こちらもやはり中心に誰かを据えた、しかし移動速度は比べるべくもないほど快調な一団だ。


「――よう、シノ」


 聞き覚えのある声がアルシノエの耳に入った途端、人垣が割れて男が現れる。


 背の高い男だ。

 春の日差しに金髪がきらきらと光った。

 男は晴天のような青い目をいたずらっぽく細めて笑う。いかにも作り慣れた、整った笑顔だ。


 姿を見せた男に周囲がざわつく。東から来た集団の中心であった彼もまた、この都における有名人であったので。


 光芒こうぼうさまだ、と誰かが言った。

 城壁さまと光芒さまがお揃いだよ!

 やあ、いいものを見たな……。

 母ちゃん呼んでこなくっちゃ!


 そんなふうに聞こえてくる声にも構わず、アルシノエの腰、帯から下げられた星球棍せいきゅうこんを見やった彼はそれを指差した。

 星形に棘のついた戦棍は、絶えぬ灯火の家ヒュペルファロスではよく使われる武器のひとつだ。


「これから神殿か? 早番だったんだな」

「ニキ」


 ニキことニキアス・ガラニスはアルシノエの幼馴染だ。

 お互いに愛称で呼び合う仲で、彼女にとっては家族に次いで気楽に話せる相手でもあった。アルシノエは頷いて聞き返す。


「ニキはこれから西門?」

「ああ。現場は三日ぶりだな。最近は事務仕事が多くて」


 衆目を浴びながらというのはアルシノエにとっては落ち着かない状況だが、付き合い慣れた相手との雑談はいくらか気が休まるものだ。


 ニキアスはアルシノエと同じく絶えぬ灯火の家ヒュペルファロスに所属している。

 しわひとつない純白の法衣があつらえたかのように似合うこの神官は、彼女とは同い年。この若さで二位神官の地位を与えられた英才だ。


「忙しそうだね」


 アルシノエは幼馴染が異例の速さで二位に昇格となったあと、地位に比例するようにして増えた諸々の雑務についてさんざん愚痴を吐かれていた。

 書類を扱うこと自体はそう苦痛ではないらしいニキアスだが、細かい仕事が多く神経を使うのだという。


「まあ、そこそこな。シノは……その顔を見る限り、いつも通りみたいだな。イオアニディス三位も、変わりないようだ」


 ニキアスから視線を向けられたエウメロスはうやうやしく頭を下げた。

 この副官は基本的に、アルシノエに対して以外は口数が少ないのだ。


「シノ、昼はもう済ませたのか?」

「ううん、これからだよ。報告を終わらせてからにしようと思って」


 昼食について訊かれたアルシノエが首を横に振ると、ニキアスは彼女の肩をぽんぽんと気安く叩いた。


「じゃあ、一緒に行かないか? 出陣まではまだ時間があるし、こちらもまだ済ませていないから」


 いいのかな?

 突然の申し出にアルシノエは少し迷ってニキアスを見てエウメロスを見て、またニキアスを見上げた。

 二度見されたニキアスは形のよい唇の両端を持ち上げてアルシノエの手を取る。


「悩んでる暇があったら食べたほうが早いと思うぞ。――イオアニディス三位、すまないがアルシノエを借りていく。報告はあとで……」

「いえ、こちらで行っておきます。光芒さまの御手をわずらわせるようなことではございませんので」

「え、え? 副隊長、あの」


 アルシノエと違って物怖じしない質の幼馴染はさくさくと話を進めていく。


 状況に置き去りにされかけたアルシノエはとっさに立ち去るそぶりを見せた副官を呼び止めた。

 エウメロスはきっちり振り向いてアルシノエに向き直ると、労わるような微笑みを浮かべて会釈する。


「城壁さま、報告はこちらにお任せください。午後の任務までどうかごゆっくり」

「ありがとう、イオアニディス三位。すまないな。ほら、おまえも」

「えっ、あ、うん。副隊長、ありがとうございます。よろしくお願いします」


 完全にニキアスのつくった流れに乗せられてしまったアルシノエがそれでも律義さは保ったままぺこりと頭を下げる。

 顔を上げたころには副官の姿はすでにアルシノエの視界から消えていた。


 そうして半ば強引に。アルシノエはニキアスに連れられて南二区へと移動することになったのだった。


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