03


「カルカスさま。ニキアス・ガラニス、参上いたしました」


 数日後。再び神殿長の呼び出しを受けたニキアスは、事務仕事の合間に神殿の最奥にある執務室へと足を運んだ。

 今日も午後から現場へ出る予定がある。午前中に処理しなければならない案件を脳内でまとめながら、ニキアスは半ば自動的に、洗練されたしぐさで頭を下げた。


「ご苦労さまニキアス。朝からすまないね」


 神殿の中でも特に豪奢な一室には重厚な執務机がどっしりと居座っていた。

 そこに腰かける老人がひとり。

 文官であることを表わす濃灰色の長衣は、左胸に松明たいまつの意匠が縫い取られている。

 彼こそがこのイポミアの絶えぬ灯火の家ヒュペルファロス神殿において、頂点に立つ存在。

 神殿長カルカス・フロロースである。


 松明の刺繍はすべての官たちの左胸に縫われているが、帯と同じサフラン色の糸を使うのは神殿長の衣装だけだ。そのほか黒棘李くろとげすももで染めた薄紅の糸を使う。

 日当たりのよい室内で胸元の刺繍をきらめかせながら、神殿長は人のよさそうな顔で微笑んだ。


「今日は大事な話があるんだ」

「はい。どのようなお話でしょうか?」


 ニキアスは真面目な表情で頷き、先を促した。


「君が二位神官になったのは一昨年のことだったね。十七のとき、分隊長を務めていたころから感じていたけれど、君には人の上に立つ才がある。少なくとも私は、そう思っているよ」

「……は。お褒めいただき、光栄です。カルカスさま」


 神殿長の口ぶりはちょっとした挨拶代わりの世間話のようであったが、なんだか嫌な予感がして、ニキアスは礼の言葉をわずかに言い淀んだ。目の前の老人は相変わらず内心の読めぬ微笑みを浮かべている。

 ニキアスの知る限り、神殿長は公平かつ公正な判断のできる人間であり、その点においてニキアスは彼を信頼していた。

 しかし神殿長の公正さが、いつでもニキアスの利益に繋がるかと言われれば、それは肯定できることではない。

 神殿長はいくらか改まった口調で、しかし重さを感じさせない声色のまま言った。


「ニキアス、君にサフランの帯を与えようと思う」

「――っ」


 これには、さすがのニキアスも息を呑むことしかできなった。


 サフラン色の帯を身にまとえるのは一位の位階にく者だけだ。その平均年齢はおおよそ五十から六十。まだ二十二歳のニキアスには早すぎる昇進話ではないだろうか。


「カルカスさま、ご冗談でしょうか? それとも……」


 頭がおかしくなったのか? と聞かないだけの常識と分別を備えていたニキアスは語尾を濁した。しかし顔は少しばかりしかめてしまったかもしれない、と表情筋に意識を向ける。


「冗談ではないよ。理由を説明しよう」


 是非に、という思いを込めてニキアスは頷いた。納得できる理由があるならもちろん知りたい。


「以前話した遠征。その遠征隊の指揮官を君に任せたいんだよ」


 だってね、と。

 外見上は好々爺にしか見えない神殿の統括者は、役割にふさわしいふてぶてしさで首をかしげてみせた。


「君には向日葵ひまわり色では、まだ役不足だろう?」


     *


 春の日差しは暖かくも穏やかだ。

 二月の空は雲一つないほどに晴れ渡っている。昼前の市場は多くの人で賑わっていた。

 大通りから少し外れた道沿いに続く市場は洗練されておらず雑多で、明るい生活感と活気を感じさせる。

 こぢんまりした屋台や幌のかかった店先が並ぶ市場を進みながら、アルシノエは着ていた外套の襟を緩めた。陽気と人混みがあいまっていささか暑さを感じる。そろそろこれも必要ないかもしれないな、と曖昧に衣替えの算段を立てた。


「やあ城壁さま、今日はお休みかい?」


 すれ違った男性に声をかけられ、アルシノエは一度立ち止まった。

 別段見知った顔でもなかったが、二言三言挨拶してまた歩き出す。歩きながら片腕の包みを持ち直した。中身は先ほど知人に分けてもらった万年露マンネンロウである。

 青い花を咲かせるこの薬草は、料理に使えるのはもちろん、化粧水の材料にもなる。


 今日はもう用事もないのでゆっくりと市場を眺め歩くアルシノエに向かって、あちこちの屋台や店先、また通行人たちから声がかかった。


「パンが焼きたてだよ! 城壁さまもひとつどうだい?」

「こんにちは、城壁さま。いいお天気ね」

「城壁さま! 今日は採れたてのあんずがあるよ! 見ていって!」


 呼び止められた店のひとつではほどよく熟れた果実が色とりどりに並んでいる。

 鮮やかさに目を取られたアルシノエが、おやつにするのもいいかもしれない、と爽やかな香りをただよわせる果実を前に思案していると、背後から聞きなれた低い声がした。


「――シノ、休みか?」


 振り返らずとも誰かはすぐにわかった。アルシノエを略称で呼ぶ人間はそう多くはないし、この声は生まれてから二十年近く、もう聞き飽きるほどに聞いている。


「ニキ」


 視線を向けると、そこにはやはり幼馴染のニキアスがいた。いつも通り勝気そうな、ちょっと傲慢ごうまんそうな笑みを浮かべている。


「やっぱり目立つな、その髪。人が多くてもすぐにわかるぞ」


 そう言ってニキアスはアルシノエの髪を指さした。彼女の長髪はまるで朝焼けのようにあかい。

 ニキアスの言う通り、このイポミアの都ではかなり珍しい髪色で、おかげでどこに行っても名乗りさえせずとも、アルシノエが誰だかすぐに気づかれてしまうのだ。

 困るというほどではないが、見知らぬ人から親しげに呼びかけられるのは――しかも綽名あだなで――いつまで経っても慣れないし、アルシノエとしてはちょっぴり気恥ずかしかった。


 ただ、目立つという点ではニキアスの方こそ負けてはいない、とアルシノエは思っている。

 彼は女にしては背の高いアルシノエがやや見上げるほど背が高く、体格も立派だ。そのうえ陽光のような金髪と空色の瞳、整った顔立ちが人目を惹く。

 アルシノエとは違って洒落しゃれっ気もあり、今日も水仙染めらしい淡い色の私服を地味すぎず、しかし華美でもない着こなしで身に着けていた。神官の制服として支給される白い法衣ではないので、おそらくニキアスも今日は休みなのだろう。


 そう思ったアルシノエが訊ねると肯定が返ってきた。ふたりの休日が合うのは珍しいことだ。


「買い物か?」

「ううん、薬草をもらいに行ってたの。ニキは?」

「俺は暇だからぶらぶらしてた。もう帰るのか? ちょうどさっき菓子を買ったんだが、一緒に食べないか?」

「いいの?」


 ちらりと掲げられた包みは大通りで評判のいい店のものだった。

 アルシノエが自分で買うならちょっと迷うようなやや高級な店だが、ニキアスはあまり物にも金銭にも執着がない。何度か見たことのある自室も殺風景なものだった、とアルシノエは思い出す。その代わりなのか、彼は度々こうやって少しばかり値の張る菓子や酒を購入していた。

 もちろんとニキアスが頷いたので、アルシノエがお礼に昼食をごちそうすることにして、二人は彼女の家に向かった。



 食事のあと、二人分の茶を持ったアルシノエが炊事場から戻ると、ニキアスは勝手知ったる様子でくつろいでいた。長椅子へ半ば寝そべるように座る幼馴染に茶杯を手渡し、アルシノエも向かいに腰かける。


「なあ、シノ」

「なに?」


 熱い薄荷はっか茶をそうっと気をつけて啜りながら、アルシノエはニキアスを見た。毛織の布地を張った座面の上、斜めに座ったニキアスは右の腕を背もたれにかけて左手で茶杯を傾けている。

 茶杯は陶器なのだが、あんなふうに持って手が熱くはないのだろうか、と度々不思議に思う。


「前に遠征の話、しただろ? ほら、〝巣〟の」


 忘れるはずもない、とアルシノエがはっきり頷いた。あれは確か、十日ほど前のことではなかったかと思い出す。ニキアスはそれを確認して続けた。


「あのあともう一度カルカスさまに呼び出されてな、俺の方が遠征へ出ることになった。しかも、驚くなよ? 俺が指揮官だ。旅団の」

「しっ、指揮官!?」


 アルシノエは危うく茶をひっくり返しかけた。隊の一員として参加するのだとしか考えていなかったのに、まさか指揮官の役割を回されるとは、神殿長はずいぶん幼馴染を評価しているらしい。

 そのうえ、動かすのは旅団である。約三百もの人員をニキアスは十全に扱うことができるのだろうか?

 ……やってしまうのかもしれないな、とアルシノエは思った。いつも周囲の期待を軽々と超えてみせる彼ならば、今回もやりきってしまうかもしれない。この幼馴染は、アルシノエとは違って頭がいいから。

 そんなふうに考えて少しばかり落ち込むアルシノエには言及せず、ニキアスは菓子の包みを解きながら器用に肩をすくめてみせた。


「俺もさすがにな。カルカスさまからサフランの帯を与えると言われたときは、耳を疑った……だっていくらなんでも早すぎるだろう? 俺はまだ二十二だし、他の一位さまはみんなご老人だぞ?」

「さ、サフラン――? なんで……あ、そっか。旅団は」

「そう、旅団の指揮は一位以上の位階じゃないと務められない。あのひと、今回の遠征で俺を指揮役に据えるためだけに昇進させたのかもな。だとしたらとんでもない話だ」


 とんでもない。そう、本当にとんでもない話である。

 アルシノエは両手で包んだ陶器の中の茶が徐々に冷めていくのを感じながら、事態の大きさに肩をふるりと震わせた。

 ニキアスがそんな彼女の前に菓子を差し出す。綺麗な焼き目のついた小麦の菓子だ。

 礼を言ってひとつ取り口に運ぶと、中には蜂蜜漬けの胡桃くるみがぎっしり詰まっていた。


「わあっ、胡桃だ!」


 思わず直前までの会話を忘れ、アルシノエがはしゃいだ声をあげる。


「おまえ、相変わらず好きだな、胡桃の菓子」


 同じものを食べながらニキアスは軽く苦笑した。口ぶりは呆れたふうであるが、表情は優しい。

 青い目を細めながら、もうひとつ、と勧められ、アルシノエは若干気まずい思いをしながらも我慢しきれずひとつ摘まんだ。香ばしさと歯触りがたまらない。


「それで、俺は来月には一位になる」

「んぐ」


 そうだった、と本題を思い出したアルシノエは茶は一口飲んだ。薄荷の爽やかな風味が喉を洗う。


「本当に、すごいことになっちゃったね……」

「全くだ。あまり面倒事ばかりこちらへ回してくるのはやめてほしいな」

「その感想でいいの……? 心配事とか、困ってることとか、ない?」


 なにかわたしにできることがあったら言って、と普段は凛々しい表情を心配そうにしながらニキアスの顔を覗き込むアルシノエに、彼は明るく笑ってもうひとつ菓子を持たせてやった。

 この幼馴染がこんなふうに隙のある顔を見せるのは、血の繋がる家族の他はニキアスだけだ。ニキアスはそれに深い満足感を覚える。


「そう、だな。すぐには思いつかないが、とりあえずは……」


 背もたれから身を起こして、ニキアスが座り直した。

 背後の窓から日が差し込んで、金の前髪が透けるように光る。アルシノエもつられて背筋を伸ばした。

 彼は卓の上に茶杯を滑らせて、こう言った。


「茶のおかわりをもらえるか?」

「もう、そういうことじゃないってば!」


 全身から力が抜けそうになるのを堪えつつ、アルシノエは少々乱暴にポットを傾けたのだった。



 あのあとニキアスは結局夕食までアルシノエの家に居座り、最終的にはアルシノエの兄と酒を飲み交わしていた。

 彼女の兄は酒好きの酒豪なのだが、家族には彼についていけるほどの人間がいないのだ。ニキアスは強い方なので、時折ならば付き合うのに問題はない。

 彼はほどほどで切り上げ、もちろんきちんと自分の足で歩いて帰っていった。


 兄と違ってしっかりしてるな、とひとりになっても飲み続けて酔いつぶれた実兄を担ぎ上げながら、アルシノエは心の中で幼馴染を褒めた。

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