第7幕 緊急事態
わたしが〈リリーズガーデン〉でアルバイトを始めて、早くも一ヶ月が経とうとしていた。
身の回りの小さな変化も積もり積もっている。亜実ちゃんや遊衣さんとも知り合えたし、わずかながら紅茶や欧米のお菓子の知識も増えたと思う。
伊佐屋さんは相変わらず謎な人だが、紅茶とメイドに対する情熱は一貫している。ただし、少しずつ仕草や態度を注意されなくなったのは少し寂しいことだった。
お店がある商店街にも、わたし好みの〝小さな変化〟が起こりつつある。
〈リリーズガーデン〉はそこそこ話題の喫茶店となり、ネットの食べ歩きサイトでも「本格派のティーブレイクが楽しめる、トラディショナル・スタイルのメイド喫茶」と紹介されていた。お店は混むようになったが、相変わらず従業員は増えない。
でもこのお店に触発されたのか、アーケードの中に飲食店の出店が増えてきたと思う。休日限定で現代風のたい焼きを売ったりしてるし、ケバブの屋台なんかも出現したのは嬉しい変化だ。うちのお店には食事メニューがないから、お腹が膨れるお店はちょっとしたライバルでもある。
季節も徐々に秋が深まり、紅葉までは行かないけれど冷たい風が時折吹くようになってきた。ホットティーの時期になれば、また新規のお客さんが店を訪れるようになるかもしれない(体を温めるにはジンジャーティーがいちばんなんだけど)。
そしてもうひとつ。アルバイトの掛け持ちが始まってから、遊衣さんのシフトが少しずつ減ってきた。三人一緒に働くことが少なくなり、亜実ちゃんとのペアの仕事がだいぶ増えたと思う。常連さんからも、遊衣さんを心配する声が少なくなかった。
しかし彼女自身はといえば、〈エンゼルカチューシャ〉でのお仕事がなかなか順調なようで、つい最近お店の専用アカウントでSNS活動も始めたらしい。
例の個性的な衣装に身を包んだ遊衣さんが、何回か魅惑的なポーズで載っていたのを見たことがある。わたしはとても魅力的だと思うのだけど、どうやらそこの客層的には、小さくて可愛い系の童顔キャラが受けるらしく、いまいち順位が伸びないとメールで送ってきたっけ。
そんなわけで、今日も亜実ちゃんとふたりでアルバイトにいそしむのだった。
ひっきりなしにお客さんが訪れる中、ひたすら紅茶とお菓子の給仕を続けて二時間。
ようやく一息ついて、わたしは事務室で休憩することになった。伊佐屋さんの計らいでそこには常にお菓子が置いてあるのだが、さすがに本格派の輸入菓子はかなりおいしくて、ついつい食べ過ぎてしまうから注意が必要だ。亜実ちゃんは三キロ太ってしまったらしい(たぶん大袈裟に言ってるだけだけど)。
今日のお菓子――クルミの入ったバタービスケットをつまみながら、ふとバッグの中を見ると、スマホが着信を告げていた。
画面に表示された発信者を見て、わたしは思わず息を呑んだ。
アルファベットで『PAPA』。ちょっと人には言えない恥ずかしさだが、もちろんアメリカのお父さんのことである。わたしは手に汗が噴き出すのを感じた。メールでのやりとりがメインの父親から、国際電話がかかってくるなんて極めて珍しいケースだからだ。
でももしかしたら、日本に戻ってきていてちょっと会いたい、なんて内容なのかも、と冷静に想像しつつスマホを手に取る。心臓がドキドキするのを感じながら、震える指で通話ボタンをタップした。
しかし父の声は慌てに慌てたものだった。
『ああ、いのりちゃん? おはよう、あ、そっちは昼か。いや夜か。……そんなのはどうでもいいな』
なんともバタバタした挨拶だった。わたしも思わず「おはよう」って言っちゃったじゃないか。ちなみに今は日本時間で午後五時四〇分。でも、これでお父さんが海外にいることは確定してしまった。
『あのな、別に大したことじゃないんだ。おまえ確か、メイド喫茶で働いてるって言ってたろ?』
「う、うん。そうだよ」
父親の声に混じり、カタカタとパソコンのキーを打つ音が聞こえてくる。職場からかけているのだろうか。もしくは、本人がPCに向かいながら電話しているのかも。
『そこって、〈エンゼルカチューシャ〉っていう店じゃないよな?』
「え……」
父の口から出た意外な固有名詞。わたしは聞き間違いも疑ったが、父は念を押すように『そうじゃないよな?』と問いかけた。
「う、うん。うちは〈リリーズガーデン〉っていって、商店街にある個人経営のお店。それって、あの全国チェーンの〈エンゼルカチューシャ〉?」
『そう。経営者は
「え、ちょっとま……」
父は慌てて電話を切ってしまった。元来忙しい人だから、仕事の隙にこっそりかけてきたのかもしれない。でも問題はそんなことじゃない。
父は確かに〈エンゼルカチューシャ〉になにか問題があるようなことを言った。「いい評判を聞かない」という婉曲表現が逆に気になる。経営者の名前まで知ってるということが問題の大きさを窺わせる。
お父さんの仕事はドキュメンタリーの映像ディレクター。その仕事の関係で、社会問題に発展しそうな企業や団体の情報は、いち早くつかんでいる。もしかすると経営がやばくてもうすぐ潰れてしまうのだろうか? でもお父さんは経済ジャーナリストじゃないし、バイト先が潰れたってその月の給料が払われるかどうかだけの問題で、ボストンから急遽電話してくる必要性はない気がする。
「おつかれー。交代しよ、いのりん」
亜実ちゃんが事務所に入ってきた。わたしは、深く考えることなく、いまさっきの電話の内容を彼女に伝えた。亜実ちゃんもじゅうぶんショックを顔に出していて、小さな身体を一層縮こまらせていた。
「そ、それが本当なら遊衣さんに伝えないと……」
「で、でもうちのお父さんの話しだし、なにかの勘違いだと遊衣さんに迷惑がかかっちゃう」
ふたりともぴたりと動きを止める。どうしたらいいかわからないのだ。
「あ、あたし今週の金曜日、遊衣さんと一緒だからそれとなく聞いてみますね。変わったことはないか、とか……」
亜実ちゃんが妥当な解決策を提案してくれた。金曜日ならあと三日だ。その間にあれだけ大きな会社がどうこうなることはないだろう。いきなり電話して動揺させちゃったら、遊衣さんの仕事にも影響があるし、それが相手先の職場に広まりでもしたら、業務妨害で訴えられてしまうかもしれない。
まったく、たまの電話でようやく声が聞けたと思ったら、とんでもないおみやげを渡してくれたものだ。基本的にわたしは父親のことは尊敬していたが、今日ばかりは反抗期の矛先が少しだけアメリカに向かっていた。
この件が尾を引いたのか、その日の仕事はさんざんだった。グラスを一個割ってしまったし、姿勢が悪いと注意もされた。
でもこのことは、これから起こる大きな事件の序章に過ぎなかったのだ。
お父さんから謎の電話があった翌日――その夜六時三〇分頃のことだった。
その日も母親は不在で、わたしはバイトもなかったから学校が終わったあとまっすぐ自宅へ戻り、真面目に宿題に取りかかっていた。
こんな学生の鑑のような生活をしているわたしに、あんな災いが降りかかるなんて。いや考えてみればそれは、災いというより大切な友人を救うチャンスに他ならなかった。
スマホの着信音が鳴って、わたしはシャーペンを無造作にデスクに置いた。
『いのりん、いまどこ?』
亜実ちゃんからだ。第一声が「いまどこ?」である。……もしかしてわたし、彼女と待ち合わせの約束でもしていただろうか。
額に汗が浮かぶのを感じながら、いつも通り言葉少なく応えるわたし。
「い、家だけど」
『朱門通りまで来れます? いますぐ!』
「え、ええっ?」
自宅のマンションは駅のすぐそばだから、電車に乗りさえすれば十数分で着く距離だ。でも話の内容がわからない。そしてやっぱり待ち合わせの約束はしていないと確信する。
『遊衣さんがピンチなの!!』
その一言に、視界がぐらりと揺らいだ気がした。昨日の父からの電話が頭をよぎる。〈エンゼルカチューシャ〉ではなく、遊衣さん個人がピンチだと告げる亜実ちゃんのただならぬ動揺に、こちらの心臓がシンクロしていくようだった。
「わかった。行く!」
『待ってます、場所は……』
わたしは勉強道具を放ったらかしにして、外出用のカーディガンを羽織ると、財布にいくらかの千円札を確認するなりすぐ家を出た。しかしなにかお金が必要な類のピンチならたぶんアウトだ。
遊衣さんの無事、そして亜実ちゃんの慌てる理由がまるでわからないまま、駅へと向かうわたしの息は荒く乱れ続けた。あと、母親に不在の連絡をしなければならない。が、そんなの電車の中ですればいい。
不安だ。とにかく不安だ。闇に手探りをするような不安。その正体がわからないとき、人は最も自分を恐れさせるものを想像するという。しかし、それを思い浮かべるにはわたしは人間として未熟すぎた。
わたしがいちばん恐れていたのは、友人が危機であるという事実よりも、そこでわたしが役に立つのか、という漠然とした頼りなさだったのかもしれない。
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