第8幕 囲い込み

 最寄り駅を降りて、朱門通りを早足で進む。日が沈んで空は完全に暗く、夜の食事を求める人々で通りはそれなりの賑わいを見せている。

 人と人の間をすり抜けるように進み、目的地まで早足で五分歩く。そこは〈エンゼルカチューシャ〉から数分の距離にある、交差点の角のファミレスだった。なかなか高校生だけでは利用しない、少し値の張るご褒美ディナー向けのお店だ。

 その正面ドアから少し離れたところに亜実ちゃんが立っていた。ぴょんぴょんとジャンプしながらわたしに手を振る。しかしいつもの快活さは顔にない。

「ああ、よかった。早く早く!」

 わたしは点滅する青信号をさくさくと渡って、亜実ちゃんの元に辿り着くと両膝に手を当ててうずくまった。もう脚が言うことを聞かない。

「中に席を取ってあります」

 言われるがままに中に入る。母親と外食をする習慣のないわたしにとって、そのレベルのレストランに入ることは大きな冒険だった。ファミレスとはいえ、ディナーなら一人二千円は取られるだろうから、財布の中を確認してきて正解だった。

 亜実ちゃんは入り口近くの窓際の席にわたしを案内した。すぐ後ろをウエイトレスさんがついてくる。

 わたしは席に着くのを一瞬躊躇ためらった。なんとそこには、先客が腰掛けていたのである。

 その先客の男性は、ちらりとわたしを一瞥して、フランス映画の俳優のように気取った会釈をした。

 〝彼〟は外国人だった。浅黒い肌にグリーンの瞳。彫りが深くて、いかにもラテン系といった感じの濃い顔だが、パーツのバランスはすごく整っていた。口には定規を当てたようにきっちりと切り揃えられた髭が輝いている。まさにヒスパニック系のワイルド&ダンディ。年齢は自分の父親くらいに高く見えるが、海外の人なので実際のところは読みにくい。

「あ、えーとまず紹介しますね。こちら、あたしのチャット仲間のロバート=コーラルさん」

「は? あの、はじめまして……」

「コーラルです。ロバートと呼んでくれていい。どうぞよろしく」

 流暢な日本語で彼は応えた。まったく状況がわからない。そもそも遊衣さんはどこなのだろう。わたしは亜実ちゃんのタチの悪いいたずらに乗せられてしまったのだろうか。

「いのりんはここに座って。そうしたら、ふたつ前のテーブルを見て」

 言われるままに椅子に座ると、素早くウエイトレスさんが水を置く。注文はあとで、とその外国人――コーラルさんが告げたので、ウエイトレスさんはさっといなくなった。

 わたしは亜実ちゃんの言葉に従って目を凝らした。

 ――あ!

 確かに遊衣さんが前のテーブルに座っていた。わたしからは背を向けた状態だ。さらに遊衣さんに向かい合うように、ふたりの男性が腰掛けている。

 そのうちの一人は以前〈リリーズガーデン〉にも来た社長の矢水郁生さん。その隣には、無造作に顎ひげを生やした逞しい中年男性が座っている。顎ひげの人は屋内だというのにサングラス姿だ。

「ごめんね、いのりん。えっと、順を追って話さなきゃ、だけど、なんて言ったらいいのかなぁ。そうだ、まずはサンダーボルテスくんのことを話さないと」

 さ、さんだーぼるてす?

「それ、ワタシのハンドルネームです。さっきアミが言いましたとおり、実は彼女とはオンラインゲームで知り合って、チャットをやりとりする仲で」

 わたしはなんとなく状況が飲めた。が、それで正しいのだろうか。とりあえず聞いてみた。

「つ、つきあってるの?」

「ぶっ!」

「HAHAHAHA!」

 なんとも外国人らしい笑い声が響く。周りがちょっと注目してしまったので、ロバートさんはバツが悪そうに口を塞いだ。その仕草ひとつひとつが大袈裟だ。

「つきあってない! そのつもりもありません! えーと、あたしもロバートさんって呼ぼう。ロバートさんは、ゲーム仲間でヒマなときにチャットするただの友達。リアルで会ったのも実は今日が初めてで……」

「トモダチです」

「はあ……」

「でね、ロバートさん、とにかく日本のサブカルチャーに詳しくて。えと、アニメとかゲームとかマンガとか、そういうのね。あとこれ大きな声で言えないけど……」

「ホモマンガ大好きでーす!」

「……」

 わたしと亜実ちゃんはあんぐりと口を開ける。しかしこの陽気なキャラクターのおかげで、いくらか緊張が緩和したのはありがたかった。とりあえず亜実ちゃんとロバートさんの関係を理解することはクリアできた気がする。

「ろ、ロバートさんはなんの職業をされているんですか?」

 なんだかお見合いみたいだが、相手の素性はきっちり聞いておかないとやはり不安だ。

「在日米軍の兵隊です。海兵隊に所属してます」

 予想の斜め上の答えが返ってきた。亜実ちゃんも隣で苦笑い。

「でね、ロバートさんはこの通りオタクなんだけど、メイド喫茶の裏事情にもすっごく詳しいんです。だから、うちの店のこととかよく話題に出してたの。それで、自然と遊衣さんの話になって……」

 その話をロバートさんが引き継ぐ。

「彼女から〈エンゼルカチューシャ〉の話を聞いたんだ。実をいうと、あの店の悪い噂は、かなり前から耳にしていた。アミのトモダチがその件に関わってるとしたら、ぜひとも力になりたい」

 その真摯な眼差しに、わたしは少し安心する。少し甘いかもしれないが、それでもわたしは人の眼の持つ力というのを信じていた。その人が演技で話しているかどうかは眼を見ればわかる。悠木イオリとしての記憶は捨て去りたいものだが、それもまた子役時代に身につけたわたしの特技なのだった。

「それでね、いのりん、遊衣さんのことをロバートさんに話してたの、ついさっきのことなんです。そしたらロバートさんからダイレクトメッセージが来て、『いま〈エンゼルカチューシャ〉にいるから、よかったら尾行しようか?』って。あたしロバートさんが軍人さんだって知ってたから、これはもうプロにお願いするしかないって思って」

 そ、そんな話がある? しかしその恐るべき偶然によって、このような状況が生み出されているのは間違いない。尾行というのは軍人よりも警察の仕事のような気がするが、細かいことは忘れることにした。

「彼女は社長のヤミズと一緒に店を出て、ここに入ったんだ。それで、アミや君と合流したというわけさ。尾行というには少し物足りなかったがね」

 そういって彼はまたHAHAHAと笑った。

 わたしにはまだひとつの疑問がつきまとっている。アルバイトが終わったあとに社長とお食事。確かにただのバイトのメイドとしては破格の待遇だと思うのだが、それが遊衣さんのピンチとどんな関係があるのだろう。

 ――まさか、愛人契約とか、そういうの?

 勝手に想像してまた手に汗をかく。

「イノリン、ヤミズの隣の男が見えるだろう?」

 ロバートさんは、わたしと向かい合った状態で、自身の背後に位置するテーブルの状況を解説した。この人までわたしのこと〝いのりん〟と呼ぶのか、と思わなかったわけじゃないけどそれはスルーしておく。

「あの、髭生やした人、ですか?」

「ああ、彼はとある〝映像作家〟だ。だけど本当に限られた業界でしか名の知られてない男でね。わたしに見覚えがあってよかった」

 いったいどんな趣味で、あんな怪しげな人に見覚えがあるのだろう、この軍人さんは。

「いわゆる〝アダルトビデオ〟における大家だよ。名前は『ボンバー村重むらしげ』という」

「ア……」

 どきん、と心臓が鳴るようなショックはあったが、おかげで向こうのテーブルの危うさが理解できたような気がする。アダルトビデオの作家(監督?)とメイド喫茶社長と遊衣さんがテーブルを囲んでいる。これは愛人契約とか、そういう類の話し合いではない。

 ロバートさんはそのまま解説を続ける。

「〈エンゼルカチューシャ〉における悪い噂はこれだ。雇ったアルバイトの中から、めぼしい娘を見つけてポルノビデオに出演させる。実際にお店で目にしていたメイドのウエイトレスが、数ヶ月後にはみだらな姿でネット配信されることになる。客は身近な近所の女の子のあられもない姿を見て楽しむというわけだ。そしてそのポルノビデオの配信元もまた、〈カチューシャ〉の経営母体であるクラインボトルの関連会社だ。つまりはあのヤミズがすべて裏で糸を引いている」

 わたしは視界がくらくらするのを感じていた。

 そんなことが事実とは思えなかった。

 ロバートさんのことを疑っているわけではない。かといって、今日初めて会う謎の外国人に心を許しているわけでもない。だが、なによりも、本当に身近な友人である遊衣さんに、そんな魔の手が迫っていることが信じられなかった。

 逆に言えば、そんなマンガみたいなことが、本当にこの世にあると思ってなかったのだ。

「実際のところ、クラインボトルの収入源のほとんどはこうしたポルノサイトの売り上げなんだよ。巧みに社名を変えて、海外サーバを使いながら実体を隠しているがね。むしろメイド喫茶は少女たちを性産業に迎え入れるための装置に過ぎない。そして日本各地にあるメイド喫茶に通う男性客が潜在的な顧客カスタマーだ。そういうところに通う男性は、華々しい女優やアイドルよりは、実際に見て会話を交わせる距離の女の子に興奮するものなんだよ」

「ひどい……」

 呟いたのは亜実ちゃんだった。彼女もまた十八禁の……アダルトな世界に憧れを持つ少女の一人。でも、彼女が楽しむ空想の世界は決して現実とはリンクしていない。

「でも、遊衣さんならそんなビデオの話、断りますよね? 遊衣さん強い人だもん」

 わたしは目尻に涙が浮かぶのを感じながら、自分に言い聞かせるようにそう訊ねた。

 だが、ロバートさんの緑色の瞳には、ますます強い光が宿っていくようだった。それは怒りの感情によって灯った光に見えた。

「これから話すことには推測も含まれる。だけど、ワタシが今まで見てきた現実からすれば、限りなく事実に近いだろう。あのヤミズという男の手口には、ワタシも反吐へどが出る思いだ」

 そういって歯ぎしりしながら、ロバートさんは続けた。話の合間に注文したソーダ水がテーブルの上に置かれていたが、炭酸の抜けるまま放置されている。

「そもそもユーイは、〈エンゼルカチューシャ〉で人気の高いビジュアルじゃない。どちらかというとアミの方が、あの店では人気上位になりやすいんだ。だから、最初からポルノ事業に誘い込む目的で、ユーイをスカウトした可能性が高い」

 その話を聞いてわたしはぞっとした。興味がなくて名刺さえ受け取らなかったが、わたしも限りなく被害者に近いところにいたのかもしれない。

「社長がスカウトしたアルバイトは、言葉巧みに誘導されて特殊な契約を結ばされる。そのために利用されるのが自社製作アニメだ。そちらに声優として出演できるという名目で、彼女は芸能活動ができるプロダクションへの登録を持ちかけられたはずだ。だがその契約書には〝一連の映像事業〟という極めて曖昧な内容で出演を承諾させる罠が仕掛けられている。その一方で、メイド喫茶でのアルバイトでは人気投票という目に見える成果によって、彼女を追い込むための仕掛けが施されている。要するに、人気投票の結果が悪かったり、SNSでのフォローが少なかったりという目に見えた〝成果〟をあげて、『このままだと芸能関係の仕事から外さなければならない』と切り出すわけだ」

 わたしと亜実ちゃんはごくりと唾を飲み込んだ。その〝推論〟に心当たりがなかったら、ここまで緊迫した気持ちにはならない。

 視界の中にいる遊衣さんも、しきりに社長たちになにかを諭されているようだった。なんだか遊衣さんの背中がどんどん小さくなっていくようにも見えた。

「もちろん、少女たちはいかがわしい仕事に対しては拒否反応を示す。だが、軽い気持ちで登録したプロダクション契約は、実のところクラインボトルとの正社員契約となっていて、法的な拘束力が強い。自分でも知らぬ間に細かい決まり事に囲い込まれてしまっているんだ。で、いっそのこと会社から抜け出そうと辞職を申し出ると、契約書に小さく書かれた特記事項が牙を剥く。大概の場合、少女たちのSNS登録や投票などのイベントに使われた予算を、損害賠償として請求できる内容になっている。それは法外な値段だがれっきとした合法的請求で、経理的にもアウトにならないギリギリの価格で交渉してくる。たとえば一五〇~三〇〇万くらいが相場だろう。親元から離れて、夢を見て薄給のバイトを続ける女の子にとっては、目も眩むような大金だ」

 わたしはロバートさんが語る物語に恐怖を感じながらも、どこかで疑問も抱いていた。

 この人は確かにサブカルチャー問題に詳しいとは思うが、あまりにも専門的すぎないだろうか? 内容のリアルさや、自分で見てきたかのような臨場感は、まるでお父さんが作っているドキュメンタリー番組を見ているかのようだ。

「あとは、『水着の簡単な撮影をこなせば、すぐに声優として起用できる』なんて甘い言葉を囁いて、撮影に引っ張り出してしまえばあちらの思う壺だ。撮影中のきわどいカットを使って『親に見せるぞ』と脅したり、ひどいときにはレイプまがいの〝本番行為〟を強要して既成事実を作ってしまう。あとは金儲けの人形にさせられるだけだ」

 過激な内容に亜実ちゃんは泣き出してしまった。ロバートさんは、さすがに申し訳なさそうにハンカチを渡す。だが彼もおもしろ半分に語っているわけではないようだった。喋りながら興奮して、顔が赤くなっているのがわかる。

 わたしはさっき抱いた疑問をとりあえず忘れることにした。いまは一刻も早く遊衣さんを助け出さなくては。

「少し喋りすぎてしまった。イノリン、ユーイは彼らからなにか紙を見せられているのでは?」

 その言葉を聞いて、わたしは吐きそうになるくらい焦った。いまや矢水社長はA4くらいの紙を何度も指差しながら、遊衣さんにペンを差し出している。そのペンを頑なに拒みながらも、遊衣さんは肩を震わせている――ように見えた。

「おそらくそれがヤミズとの契約書だろう。それがある限りユーイは逃げられない。そして退職届にサインすれば、莫大な賠償金が発生してしまう。袋のネズミだ」

 事態は一刻を争う。でも、いったいどうしたら――。

「いのりん、どうしよう。あれ、やばいよね……」

 亜実ちゃんは涙を拭きつつわたしにしがみついてくる。わたしだって、誰か頼りになる人がいたらすがりついてしまいたい。

「で、ここからは具体的な作戦についてだ。ほら、ちょうどワタシが注文した料理がやってきた」

 そう言ってロバートさんが指差した先から、ウエイトレスさんがお盆を持って歩いてくる。テーブルに運ばれてきたのは、真っ赤なトマトケチャップがかかったオムライスだった。さすがにハイクラスのファミレスだけあって、タマゴはふわっふわである。

「ユーイを助け出したいところだが、それだけでは不完全だ。契約書を手に入れるか、破ってしまわないとね。そこで――おっと、まずいな」

 ロバートさんは、オムライスを食べてもいないのにそんなことを言う。

「急ぐ必要がある。ほら……」

 彼は耳に手をやると、小さなイヤホンをそこから外した。コードレスのコンパクトなタイプで、いままでそれをつけていたことを気づかせなかったほどだ。

「耳に当てて」

 わたしはそれを受け取り、言われるままにイヤホンを耳に近づけた。すぐにぎょっとしてロバートさんの後方に目をやった。

 そこから流れてきたのは遊衣さんの声だった。

『そんなこと急に言われても……』

『悪いけどね、香山さん。もうスタジオの準備がしてあるんだ。これからすぐ向かわないと。こうして監督にも来てもらってることだし』

『わたし、まだやるって言ってません!』

『あ、そう。じゃあ今日の準備分も損害支払金として上乗せさせてもらうよ。三日前からのスタッフ代も含めて、一〇〇万円以上かかってるけど、いいのかな?』

 遊衣さんを追いつめるなんとも生々しい会話が、見事に社長の唇とリンクしていた。

 というか、これって盗聴なのでは? ちなみに亜実ちゃんもそれを耳に当ててから口をぱくぱくさせていた。

「盗聴じゃないよ。感度の高い指向性マイクで音を拾ってるだけさ。たまたま商売道具を持ってたもんでね」

 やることなすことますます怪しい。どうして盗聴道具を持って〈エンゼルカチューシャ〉にいたのだろう、この人は。

「とにかく急いでユーイを救出する必要があるな。では作戦を説明しよう」

 わたしたちは身を乗り出して〝作戦〟に耳を傾けた。だがそれは、素人のわたしでも不安に思わずにはいられない内容だった。

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