第2話 ナース・笑谷数珠里

 私は両手を胸の前でぶんぶんと左右に振る。その際に手首も自動的に、私の意思に関係なく振れてしまうので、捻挫していた手首は当然のように悲鳴を上げる。

「いッ――いたあああああ!?」


 慌てて手首を押さえる私を、――まったくもう、と余裕ある大人の対応で、数珠里さんが介抱してくれる。さっきまではあんなにも焦っていたのに、私が慌てた瞬間に冷静に戻るなんて……。ナースに向いているのか、どうなのか――。

 でもさっきの、自分のせいで痛がらせてしまった場合はあんなにも焦っていたのだから、向いているのかどうなのかは分かりづらかった。


 数珠里さん――笑谷えみや数珠里さん。

 白く清潔なナースを服を上下に着ており、けれども帽子は被ってはいなかった。見た感じふわふわの髪質で、黒髪の間に空気が入っているかのように、少し膨らんでいるように見える――。

 ナースとしてはきっちりとしていないから、ダメ出しをされそうな髪型だった。

 けれどもそのおかげか、柔らかそうなイメージを抱かせる。見ため通りに言葉も性格も優しい人だった。だってたまたま通りかかっただけなのに、私が苦しんでいるところを見ると、一目散に駆けつけてくれたのだから。

 いや、これって当然のことなのかもしれないけど。

 ナースとしては、当然のことなのかもしれないけどね。


 だとしても、駆けつけてくれたことに私は嬉しかった。もしも来てくれなければ、私をこんな目に遭わせた間接的な原因であるこいつ――、私の同期である悪魔のような男に、笑われたままなのだろうから。


「――ぷ、くくく、こいつ、マジか……」

 いや結局、数珠里さんが来ようが来なかろうが、笑われていることに変わりはなかったのだけれど――。それにしても、笑い過ぎではないだろうか、と思う……。

 だって後方宙返りを失敗して怪我をし、数珠里さんが来て、介抱をしてくれて、そして現在までのその間、ずっとこんな調子なのである。


 ずっと笑っている。

 絶えることなく、がまんする気なく笑っている。声に出すのはさすがに相手の良心にも甘く触れているのか、そこは気を遣ってくれているけれど、でも、できておらずに声を漏らしてしまっているのだ。声を出すことを抑えようとするのならば、笑うこと自体をがまんしてくれないかなあ、と思うけれど、無理だろうことは分かり切っている。もう、確定していることなのである。


『これ』に期待はしていない。

 なにもかもがテキトーで雑な男なのだ、こいつは。


「普通、するか? ただの雑談で馬鹿にしただけなのに、後方宙返りなんつー危険で極まりないことを、こんな揺れている不安定なところで、するか? 普通よお。あっはっはっ、まあ、面白エピソードとして登録しとくぜ、御鈴木――これで飲み会の時に話すことができるな」


 腹を抱えて大げさに笑う男に、私は当たらないことがほぼ決まっていると分かっていても、それでも手を出すことを、制御して止めることはできなかった。

 私だって女性なのである。普通なら、女性が怪我をしたのだから、少しは心配してくれるとか、助けてくれるとか、そういうのがあってもいいはずなのに、こいつは……、

 まったく、助けようとしてくれない。

 楽しんでいる。

 もう嫌――こいつは、私の敵なのだ。


「こ、え、む、らぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああっ!」


 自分でも驚くような低い声を出して、私は相手の顔に平手打ちをしようと手を出す。けれどもその攻撃は避けられる、わけではなく、受け止められた……。

 その際の、手と手の接触時に、ぴりっとした痛みがあった……ああ、と思い出す――、

 そう言えば、捻挫をしていた、と。


「――いたぁっ!?」


「お前、馬鹿なの? さっきも同じことをしてたよな? 手首を怪我してるのに、なんでお前はよりもよって、怪我をしている方の手でビンタをしてくるんだよ――ったく」


 言いながら、そして呆れながら、彼は私の手首を離した――、落ちた手首はリーチ限界まで伸びたところで、落下が止まる……その際の反動が手首に痛みとして出現するかもと遅くに気づいたが、けれど痛みはなかった――。鈍い感覚ならあったけれど、痛みはない。どうやら落下の距離を調整しながら離してくれたらしく、反動での痛みはほぼカットされたらしかった。


 ……なんという、微妙な優しさなのだろう。

 そんなことで好感度が上がるとでも思っているのだろうか――、上がったところで絶対零度並にマイナス値なのだから、ゼロには遠過ぎると言うのに。

 それでも一応、気を遣ってくれたことに変わりはないし、助かったことにも変わりはないのだから、あまり言いたくはないけれど、感謝はしておくことにした。


「……まあ、ありがと」


「俺のせいで捻挫させたようなもんなんだし、これくらいは当たり前なんだけどな――まあでも、その感謝の言葉は貰っておいてやるよ、御鈴木」


 腕を組みながら偉そうに言ってきた――立場としては、私たちは同じなのだから、先輩も後輩もないんだけれど。というか、そうだよ――これくらいの優しさは当たり前なのだ。

 全部が全部、越村こえむらが悪いのに……なんで私は感謝して――いやでも、しなかったらしなかったで、私自身がもやもやするから、して正解だったのか。


 また越村に馬鹿にされそうだから――こんな心情は吐露しないけれど。


 すると――、

「二人共、すっごい仲良しっ」


『――違いますよ!』


 私と越村の声が綺麗に重なり合って、

 数珠里さんの言い分を補強する材料にさせてしまった。

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