第50話 桜舞う中で

 わたしは、こつん、と、壁を、叩いた。

 優しく、叩いたとは言えないような、ただ、触れただけのような、そんな、ソフトな勢いで――触れた。すると壁が、ぼろぼろに、崩れた。

 桃色の粒子をまき散らしながら、壁が崩れて、晴れた視界の先には、信じられないようなものを見たような、驚きに支配されている表情の、彼女が見えた。


「なん、で――」


「あなたの力によって動いた地面、壁――、これはあなたの心の現れでしょう? 心の力によって作用した現象でしょう? その中に、スイーツエリアの効果が、挟まっていた。

 だから、そこをこつんと叩いただけで、壁が崩れた。

 これって、あなたの中に、デッドとスイーツが、入り混じっているってことでしょう?」


「そんな、嘘、よ――わたしの中に、救われたいなんて気持ちは――」


「あなたの中に、悪と善が、入り混じっている――」


 迷いが生じている――彼女の中では、復讐を促進する心と、断絶させたいという気持ちが、せめぎ合っている……、このスイーツエリアは、姿が見えない『彼女』のスイーツエリアではない……なぜなら、温もりが違うからだ。

 だからこのスイーツエリアは、『彼女』のものではない、と分かったのだ。


「――彼女は、もういない――あなたが潰したのだから、もう存在していない。だったら、残っているのは、あなたしかいない。どれだけ自分で否定しても、心に嘘はつけないんだよ!」


「――ちが、う! 違う、わたしは――!」


 わたしは――、

 けれどその続きが、彼女の口から出てこない。


 何度も繰り返し、言葉は、そこで途切れてしまい――その続きはやってこないまま。

 彼女は、崩れてしまう。


 膝を折って、手を地面につけて、力無く――。

 顔が下を向き、呟きすらも、なくなり。


 そんな彼女の元へ、わたしはゆっくりと歩み寄っていく。


「ねえ、見てよ――」


 俯いている彼女の顔を、顎に手を添えて、持ち上げる――彼女の顔を上げさせて、周りを見せる……、見せたその光景は、彼女にとっては、屈辱かもしれない、信じたくないかもしれない、自分の役目の消失だと嘆くかもしれない……、でも、見せなければいけない。


「ほら――辺り一面、桃色一色」


 周りの風景は、壁などなくなり、そこはもう、スイーツエリアと言ってもいいのではないか――それくらいに桃色で、遠く離れたところまで見えるくらいに、地面は平らで、誰が彼女のことを、心を、悪だと言えるのだろうか。


 地平線まで見えて、町などなくなり、見えなくなり――、辺りは桃色の粒子に染まっていて、それはまるで桜のように、風に乗って流れている。

 お菓子はない……今までのスイーツエリアではない。

 それが、彼女との違いなのだろう――。

 世界の意思、彼女のスイーツエリアは、桜舞う、まだ創造し始めの、駆け出したばかりの、未来ある子供のような世界。


 世界の意思、彼女の心は――未来を、得た。


 こんな綺麗な未来を、見つめる心理に到達した。


 これなら、わたしは、いらなかったのかもしれない。彼女だけで、事件は解決していたのかもしれない――なんて、でも、ここまでくるのに、やっぱり、わたしの力も、あったのだろう。

 ここでわたしはなにもしていないなどど、無責任なことを言うつもりはない。


 わたしが、彼女を、変えたのだ――直接的ではなくとも、間接的に。

 ここまでくれば――ならば。

 わたしの人格を、与えなくても――。


「…………」


 そう、沈黙して、桃色の風景に見入っているわたしの服が、すると、くいっ、くいっ、と引っ張られる……感覚がしてから、そちらを振り向く――すると、わたしがいた……。

 正確には三年後のわたしが、その顔が、唇が……あった。


「――ん、んん!?」


 一瞬後――唇と唇が触れた。

 キスをされた。


 世界の意思である――彼女の方から、キスをされた。


「――ちょっ、な、なにをして――」


「……これが、わたしの初キッス――」


 笑顔で言う、世界の意思は――、

 心を撃ち抜くほどに、威力があった。


 そして、彼女は一歩下がり、

 くるっと一回転して、髪と服をはためかせて、


「――ありがとね、わたし」


 対極にまで心が変化した、優しく突き抜けた愛情表現の後に言われた彼女の言葉に――、

 わたしは――うん、と頷く。


 その時、自分の両目からこぼれた涙を拭う前に、わたしの体は――感覚を逃した。



 これで――終わり。

 これで――戻れる。


 わたしの役目は、終わったんだ。

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