第48話 上書きのキス

 世界の意思であるあのサナカと、キスをして融合しなさい――しいかさんはそう、冗談に見える、半笑いの表情ではなく、至って真剣な眼差しで、わたしを見つめて言ってきた。

 語気からでも分かるように、見た目を判断材料にしなくとも、全然、分かることなのだけど……、それでもわたしはまだ、信じられず、あわよくば、まったく違う方法がないものか、探しながら、それとなくしいかさんにも聞いてみたのだけど、


「それ以外の方法はないわ……キスしか、方法がないのよ」


 と、容赦なくわたしに言い切ってくる。

 しいかさんは、いいじゃない、自分同士なんだから、と言ってくるけれど、たとえ自分同士でも、嫌なものは嫌だし、無理なものは無理なのだ……。

 というか自分同士でキスをするのって、なんだか鏡を見つめてキスの練習をする乙女みたいな痛々しい光景が目に浮かんで、目を逸らしたくなるんだけど……。


「いい? ここまでくれば逃げ場を塞いでおくけど、キスと言っても、ほっぺたにちょこんとキスするだけだとか、そんなのはなしだからね。私が言っているキスはね――」


 唇と、唇――よ。


 と、人差し指を自分の唇に当てて、離したりくっつけたりを繰り返しているしいかさんは、その動作で言葉だけではなく見た目で、わたしに絵的表現を伝えてくる。

 そこまでされなくとも、唇と唇同士をくっつけるとまで言われれば、脳内で再生できるので分かるというものだ。

 親切なのか馬鹿にしているのか、曖昧なところだ――。

 もちろん、親切が八割を占めているだろうけど、しいかさんのことだ、馬鹿にしてはないにしても、からかっているということはあり得る。


 あの人、楽しんでいるなぁ……。

 そう思って、はあ、と溜息を吐く。

 キスをすれば世界の意思である彼女、わたし自身、オリジナルである比島サナカと融合でき、わたしの人格を、復讐に憑りつかれてしまっている彼女の人格に上書き――、そうすれば目的は達成され、現実世界へ、戻ることができる。

 上書きしたことによって、わたしが現実世界に戻り、彼女として生きることができるのかと言われれば、そうではないらしい。


 わたしは、消えるのだろう。


 跡形もなく――なんて、そこまで酷い扱いをされないことには安心だった。つまりは、現実世界に戻ったら、彼女がベースで、わたしのこの無邪気な要素が強く押し出されて、比島サナカが作り出される、ということらしい。

 今までの失敗、オリジナルである比島サナカが味わった数々の失敗、傷、トラウマ……それに近い体験をしたわたしのこのデッドエリアの漂流期間——その間に強くなったわたしの心、失敗しても未来のために失敗を恐れずに挑戦し続けることができるその強さだけを、彼女の心に上書きする。


 この人格があるだけで、復讐というマイナス要素は、消せなくとも、自然と奥に追いやられていくはずなのだ。

 消すなんて、それは逃げであると、今のわたしは思っている――だからきっと、現実世界に戻っても、わたしのこの人格は、彼女のために役に立ってくれるのだろう……。

 復讐の心と、決着をつけてくれるはずだ。


 今のわたしが、全て現実の彼女に引き継がれるわけではない――引き継がれるのは、一部分だけである。完全消滅ではなく、微かに、まるで粒子のように、精神の中で、わたしは生き続けることができる、と聞いている。

 干渉はできないけど見守ることはできる――。

 まあ、ずっと、眠ったままかもしれないけど。

 だって、どうせなにもできない、わたしなのだから。


 善のサナカは、こんな気持ちだったのかもしれない。なにもできないまま見守るだけ……でも、彼女の場合は、スイーツエリアがあったから、干渉はできたのか。

 でも、わたしは、全てが上手くいったら、どうにも――と思ったところで、それに関しては、わたしの努力次第なのかもしれない。

 スイーツエリアも、元々から実装されていた機能ではなく、善のサナカである彼女が、想いを強くして作り出したシステムなのだ。


 デッドエリアも、そうなのである。

 だとしたら、干渉はできないという、崩せないロジックに囲まれている現実世界でのわたしの立場であっても、想いが強ければ、どうにでもなるのかもしれない。

 なにもしない、そういう状態が一番望ましく、平和ということなのだけれど、それでもわたしも、時にはなにかをしたくなる。


 彼女のために。

 サナカの、ために。


 もう一人のわたしのために――助けを、したくなるのだ。

 今の、スイーツエリアの、彼女みたいに。


 だから消えることに、恐怖はなかった。

 足を進めることに、恐怖はなかった。


 彼女と融合をすることに恐怖はなく、だからあるとすれば、キスという、初体験である。


「…………」


 じっと、動かずに立ち止まるわたしを不審に思ったしいかさんが、ぽんっ、と肩を叩いて、もしかして、キスするの初めて? と聞いてくる――。

 わたしはびくりと体を震わせてから、


「――そ、そそそそりゃ初めてだよだってまだ高校一年生なんだからぁっ!」


 と、早口で言ったみたものの――高校一年生ならば、別にしていてもおかしくはない年齢であるし、いや、もうみんな当たり前のようにしている年齢ではある。

 早い人はもう既に、小学生の時にそういう体験は終わっているはずなのだから。


 わたしが中学生だった時もそういう話題は尽きずに、誰がした、誰がしていないと、いつわたしがターゲットにされるか、恐くてぶるぶると心を震わせながら、話題についていったものだった……、幸いにも、わたしがターゲットにされることもなく、

 それはつまり、そういう話題に関連するようなイベントがまったく皆無だったことを意味しているわけであるけど、別に、悲しくはない。


 ……寂しくもないし。


 とにかく、お付き合いも恋愛もしたことがないわたしはキスなんて、そんなこと、できるはずもなかった。一日前に事前に言ってくれていれば、多少は変わっていたかもしれないけど、突然言われて、しかもすぐにキスをしろと言われても、無理だ。

 無理無理無理。たとえ自分同士でも、逆に自分同士だからこそ、現実世界で決してできないようなファンタジー強めの状況だからこそ、できないという理由も強い。


 これが、しいかさんだったら――と考えてから、想像してしまってから、顔の熱が止まらなくなって、わたしは現実から逸らすように顔を伏せる。

 うわあ、と罪悪感。

 自分に嫌悪感――とてもじゃないけど今、顔を上げることができない。


 すると、わたしの頭の上にぽん、と手を置かれた感覚がして、うん? と気を抜いた瞬間だった――顎に添えられた手が、わたしの顔を上げて、一直線、前を向くように起こされる。

 上がった顔の前には、しいかさんの顔があり、唇があり、それが近寄ってきていて、しいかさんはまったく目を瞑らずに――動転している、けれどしいかさんの手によって実際にはまったく動けていないわたしの唇へ、自分の唇を、重ねた。


 キスされた。

 キスされた。


 キスを――された!?


「し、ししししいかさん!?」


 瞬間、ばっと離れて唇を拭うわたしを見て、しいかさんがショックを受けたように顔を伏せていた――あ、と気づいて、わたしはすぐにフォローをする。


「いや、これは別にしいかさんとのキスが嫌だったってわけじゃなくて――実際、柔らかくて温もりがあって気持ち良くって……って、違う違うそこまで詳細には覚えていなくて、その……っていうかなにしてんですかしいかさん!?」


「最終的には逆切れ、ね。いいじゃないの、減るもんじゃないでしょうに。

 ――さて、これでサナカの初キッスは私のものね――どう? 本番をする前に練習を挟んだ方がいいと思って、あとは緊張すると思って、息もさせない勢いでキスをしてみたんだけど――」


 練習になった? としいかさんが聞いてくる。


 いや、なっていない――驚きが強過ぎて、今のキスの最中のことなんて、キスの前の心理状況だって、全然、何一つとして起動しておらずに、不意打ちによってゼロの状態だったのだ。

 これじゃあ次に本番だと言われたところで、練習なしとなにも変わらない。

 逆に今のキスを知ってしまっているからこそ、さらに緊張してしまう可能性がある。


 今のを、もう一回やるのか……。


 今のキスを思い出してしまって、顔を真っ赤にするわたしは――世界の意思である彼女と、目が合った。彼女もまた顔を赤くしていて、わたしと対応が似ている――、そりゃわたし自身なのだから、似ているのは当たり前なんだけど……。

 でも、おかしい……のではないか、と気づく。

 彼女はわたしよりも三年後の大学一年生であり、つまり現在のわたしよりも人生経験が多いはずで、だとしたらキスの一つや二つ、しているのは当たり前で、慣れているはずなのに、彼女は、頬を赤らめて、目を逸らしている。


 これって、つまり――、


「ああ、サナカは処女のままよ――キスだってしていないと思うわよ」


「な……、な――」

 ななな、なんだって!? とは、心の中だけで叫んでおいた――。


 最初は驚いたけれど、冷静に考えれば分かることでは、ある……高校三年生の時に彼女は傷を負い、そこから人生が狂っていったのなら、高校一、二年生の時に事を起こしていなければ、それ以降で、キスや恋愛云々で体験をできる可能性は限りなく薄い、と思う……。

 歪んだ彼女がそんなものに興味があるとは思えない。


「――でも、顔を赤くしているってことは、興味はあるって、ことなのかな……?」


「興味を持ったのかしらね――今の私たちの姿を見て。これは明らかな前進よ。

 以前のサナカだったら、こんな姿を見せても視線一つくれなかったんだから」


「――しいか」


 ぷるぷると拳を震わせている彼女が、小さな声で、冷たい声で言う。


「人のプライバシーをそんなに簡単にばらさないでくれるかな? キスをしていないとか、そんな証拠もないことを――あなた、知っているわけがないでしょうに!」


「あ、じゃあキスしたんだ?」


「――してないけど!」


 はっ、としてから彼女は口を押えた――しまった、という表情を隠そうとしているけれど、もう既に遅い対応である……ここまで感情が豊かなのは……とは言え、さっきまでも豊かではあるんだけど、この豊かとは、豊かのレベルが違くて、なんだか、今の彼女は、わたしたちに近い、そんな人間らしい一面を見せていた。


「……もういい、キスしたければすればいいじゃないの。わたしには関係ないわ――」


 そう言って、視線をわたしたちからはずす、世界の意思は――なんだか。


「……心、開いてきてる?」

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