第6話 黒い捕食者

 一番、重要な違和感があった。


「……軽い」


 重くない。


 わたしがゆっくりと屈んで、踏ん張ることができる――、

 膝が軽々と男性の体重に耐えることができている。


 持ち上げる時は一気にいくしかなかった。

 それでやっと持ち上がる程度の力しかないのに、

 今、わたしはゆっくりと、屈むことができている。


 もしかして――死んでしまっている、のかな……。

 どこかで聞いたことがある――薄らと聞いたことがある、本当なのかどうか、分からないことだけど、確か、人には魂があって、質量が、僅かだけれど、あるらしい。

 だから、死んで魂が抜けたから、この男性は軽くなったのではないか――。

 でも、だとしてもここまで急激に軽くなることはない。


 質量は僅かしかないと言っているのだから、僅かな重さしか減らないはず。


 だったら――なんなんだろう。この男性は、男性は、男性じゃ、ない? 自分でも訳が分からいことを言っている自覚はある――、そうなってしまう程に意味が分からないのだ。

 意味が分からないことに巻き込まれて、意味が分からない場所に来て、意味が分からない事態に陥っている、今。


 意味が分からない。


「だ、れ……?」


 問いかける――けど、返事は、な……、



『――るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる』



 耳がねじ曲がりそうな奇声が、耳元で聞こえてきた――。

 男性の口から、発せられている。

 でも、さっきまでの男性の声ではなく、もっと、高い……小さな子供のような声だった。


「う、ぐ――」


 耳を塞ごうとしたけれど、両手は男性を支える手に使ってしまっているので無理だった。

 だから堪えるしかないのだけれど、無理だった。さすがに耳が耐えられなくなって、まだこの人は男性だと信じてはいるけど、同じくらいに疑っている……。

 矛盾している感情を男性に向けていながら、

 だからごめんなさいと謝ってから、両手を離して耳を塞いだ。


 男性は地面へ落下し――びちゃり。


 ――びちゃり?


 耳は塞いでいるので、実際に音は聞こえないけど、そう擬音が鳴りそうな光景が目の前に広がっていた。男性の体は崩れて、まるで、液体のように地面に散らばっている。

 黒い、墨汁のような液体は、散開していたけど徐々に部分部分がぴくぴくと動いて中心地点へ集まってくる。


「う、うあ――」


 ――気持ち、悪い!


 まるで、蟻の大群が集まってきて、一つのオブジェを作っているかのような、光景。

 黒い液体は段々と形を作り出していき、最終的に四足歩行の動物になった。


 黒のまま、目の部分が、少し赤い、くらい。

 イメージとして近いのは、アニメに出てくるゴーストみたいな感じ――、

 四足歩行の動物の影がそのまま飛び出てきた感じにも見えた。


『…………』


 さっきの奇声はもう言わないのか、静かだった。

 でも、だからと言って安全というわけではない――安全なわけがない。


 こんな不気味な『生物』と言っていいものかどうか分からないものが目の前にいたら、まず危険と判断するのが当たり前。


 実際にどうかは置いておいて。


 ……男性が、黒い液体だった――つまり、男性は、男性ではなかった。

 さっきの男性は、

 この黒い世界に住んでいるよく分からない、生物なのか曖昧な、存在だった。


 ――騙された?

 ――弄ばれた?


 こうして向き合っているのは、正解と言えるの?


「――そんなわけ……」


 ない! と言ったと同時に、わたしは駆け出した――。

 その黒い生物なのか曖昧な存在とは真逆の方向へ、駆け出した。


 スタートダッシュは完璧で、一気に突き放したつもりだったけれど、相手は四足歩行、犬みたいで、狼みたいなもので、もしかしたらチーターみたいなもので、

 だとしたらすぐに追いつかれてしまう。そんな想像をしていたら、


『るる――るぅううううううううううううううううううううううううううううううッッ』


 奇声は奇声のまま、怒号を追加させて町の中に響く――、

 そして、わたしの背中を目指して駆け出してきた。


 全速力で走っていても、わたしの方があの黒い生物よりも遅い――、突き放したつもりだった距離は徐々にではなく一気に詰められた。すぐ後ろにあの黒い生物がいる――、とんっ、とジャンプでもすれば、わたしの背中に噛みつけるような位置に。


「――っ」


 そして想像と予想は、実際に起こった。

 背中がいきなり重くなって、体重が後ろに強く引っ張られ、体が強制的に逸らされる。


 掴まるところなど存在しない、障害物がないこの空間では、なす術なくわたしは素直に背中から地面に倒された。


「――い、たっ……」


 がんっ、と頭を打ちつけて、ぐらぐらと視界が揺れた――気がした。

 いやたぶん、実際に打っているんだろうけど、

 だからこそぐらぐらと視界と意識が揺さぶられて、はっきりしない。


 頭の痛みを緩和させるため、意識をこれから先、保てるようにと手を頭に持っていこうとしたら、手が、動かなかった。なにか、力強く押さえつけられているような感覚がして――、

 その力が段々と強くなっていく。


 視界が暗い――黒い。


 目の前が、夜なのかと思ってしまう程に。


 意識の明滅のせいかと思っていたが、違う――危ない場所を綱渡りしている状態だけど、わたしの意識はしっかりと倒れる前と変わらないコンディションを保っている。

 だから目の前が暗く、黒いのは、わたしが悪いわけではなく、外部のせいだ。


 目の前を覆う黒は、わたしを地面に押さえつけている、あの、黒い生物だった。


「は、う――」


 目と目が合う。目と目が合うだけならば、それだけならば、ここまで怯えることはなかったかもしれないけど、それは人と人の場合であって、この場合に限って言えば、目と目が合った――その対象者の片方は、人間ではなく、曖昧な、存在——。


 赤い目がわたしを見下ろす。

 細く鋭く、今にもわたしの喉元を噛みつきそうな目。


 やめておいしくないよと目で訴えるけど、あっちが捕食者でこっちが餌である時点で、ここに関しての妥協はきっとない。

 わたしはなぜこの不思議な世界にいるのか、この不気味な世界にいるのか、分かっていることなどなにもない状況で、いま初めて、確信のような、この世界のルールを知ることができた。


 強者と弱者。


 黒い生物とわたしは、その関係で繋がれている。


『るる、るるるるるるるるる、る?』


 疑問符が付いてそうな鳴き声を発する黒い生物のことを、わたしは見つめる。

 でも、わたしが考えたからの行動ではなくて、

 押さえつけられているから、必然的に見つめてしまうというだけである。


 それに、加えて目を離してはいけないというわたしの胸から出てくる忠告もあるけど。


 近くでこうして見てみると、さっきまで曖昧で予測でしかなかった相手の動物――、その種類が、こうして近くで見ることによって絞ることができていた。

 やっぱり、狼だった。狼と言っても、わたしからすれば犬と変わらないから、さっき挙げた予測の、犬と狼と、チーター……チーターではないと分かった時点で、犬でも狼でもどっちでも良かったし、困ることはないんだけど。


 そんな黒い狼は――、わたしの喉元に噛みついてくるかと思いきや、いきなり、なんの前触れもなく(いや、もしかしたらあの疑問符が合図だったのかもしれない――でもそんな合図なんて言われなくちゃ気づけないものだ――だからわたしからすればいきなり)溶け出した。


 どろどろと、わたしの全身を浸すようにして、黒い液体がわたしの上に乗っかる――、

 掛布団をかけているかのように乗っかってくる。

 形が崩れて、もうあの狼の姿の面影は、三分の一しか残っていなかった。


 足はなくなり、顔だけがわたしの胸の上にあるような状態で、赤い目は、今も変わらずわたしを覗き込んだまま――噛みつくことは結局、最後までなかった。

 でも分からない――もしかしたら、噛みつく気満々でタイミングを待っていたのかもしれないけど、そのタイミングがくる前に、黒い狼は『蹴り飛ばされた』のだから――、

 どっちみち、噛みつくことはできなかった運命なのだろう。


 飛んでいく黒い狼の顔――、変身途中だからなのか、形成途中だからか、

 顔が飛んだのと同じように、わたしに覆い被さり纏わりついていた液体群は、頭を追いかけてわたしから離れていく。


 服を剥かれた気分だった――。

 咄嗟に手で、自分の体を抱きしめようとしたけど、それよりも早く、わたしの手はわたしではない別の手に握られる。


 人の手だ。

 温かい手だ。


 生きている――手。



「――なにしてんのよ、早くきなさいってばっ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る