1章:ドクマル/暴走乱射
第5話 生き残り
黒の世界側に、黒の世界の手によって引っ張り込まれたわたしは、元の世界――、
わたしがいるべき本当の場所ではなく、さっきの絵本の中のような世界――に戻ることもできずに、とぼとぼと歩いていた。
黒に飲み込まれた瞬間に、
『あの世界』も同時に、遠ざかるようにして消えてしまっていた――。
恐らくは、遠ざかった方へ向かったところで、ここと変わらず同じ世界だ……戻ることはできないだろう。
なので戻るのではなく、前向きに考えて、わたしがいつの間にか飲み込まれたその瞬間、偶然前に向いていた方向へ、進むことに決めた。
ここ一帯が同じ世界であるから、どこに行こうと結局は前に進んでいることになるのは、後になって気づいた――、
今更、もう既に進んでいるこの場所から他の方角へ、進行方向を変えるのもまだ早いと思ったので、そのまま今、最初に決めた方向へ、真っ直ぐに進んでいるわけである。
この先になにがあるのか――それを見つけるまでは。
見届けるまでは方角を変えることはできない。
変えない、と決意を固めて守っている自分ルールのおかげで、前を向いて進むことができているわたしだけれど、本当のことを言えば、実を言えば、もう既に心が折れそうだった。
……意識して、視線は真っ直ぐよりも斜め上へ向けている――。周りの風景は黒と赤で染まっているけど、よく見てみれば現実世界と変わらず、車道を挟むように歩道が設置されてあって、マンションやビルなどが歩道の脇に建っている。
わたしの通う学校の通学路と似ている風景だけど、さすがに同じ場所じゃない、とは思う。
見たことない、風景――いや、でも既視感がある。
けど、道路を挟んでの歩道なんて構造は、世界中にありふれているし、というかそれが基本的であって、当たり前と言えば、当たり前なんだよね……。
だから既視感があっても変なことではない。
そんな風景をずっと見続けているのも、そろそろ飽きてきた――なにも楽しくない。
だからと言って視線を少しでも下げれば、見たくないものを見てしまう。
倒れている人を、血だらけの人を、死んでいる、人を――見てしまう。
さっき、ちらりと見てしまってすぐに視線を上げたから、今もこうして冷静に平常を保っていることができているけど、もしもいま見てしまえば、たぶん心の中に溜まっているなにもかもが溢れてきてしまって、どうしようもなくなってしまう――そんな自信がある。
「う、うう……なんで、こんなことに――」
なんで、こんな所に。
わたしは、なにも悪いことをしていないのに。
――今日だっていつも通りに生活していれば、今頃は、起きて、朝ごはん食べて登校して、学校に着いて、教室に向かいその途中でみんなと会って話して授業を受けて、帰ってきて自分の趣味に打ち込んでいるところだったのに。
なんで、こんな目に――遭わなくちゃ、いけないんだろう。
「…………、え?」
ひゅすー、ひゅすー、という今にも消えてなくなってしまいそうな息遣いが聞こえて、わたしは反射的に、視線を下に向けてしまっていた。
けれど思っていたよりもショックは少なくて、自我が壊れることはなかった――、それは、助けを求めてくれている人がいる、ということではなくて、きっと、自分の他にもきちんと動いて生きている人がいるというところに、嬉しさを感じたのかもしれない。
だって、世界で、一人――それは、寂しいもん。
だからわたしはすぐに、倒れている、血だらけで胸の部分に大きく、爪痕三本――、
そんな形の傷が刻み込まれている男性の元に近寄って、声をかける。
「――だ、大丈夫ですか!?」
無意識に体を揺さぶってしまいそうになったけれど、相手は怪我人だ――揺さぶれば痛みが暴れて、助かる命も助からなくなってしまうかもしれない。
わたしは素人でなにも分からない――だから下手なことはせず、お医者さんを呼ぶべきだとは思うけど、でも、この世界でお医者さんが機能しているとは、思えなかった。
それはさすがに楽観視し過ぎている――、高望みのし過ぎ、希望を持ち過ぎだ。
そんな便利なものなどない――あればとっくのとうに使われているはずである。
使われていないということは、つまり、言わなくても分かるような絶望的状況、ということだろう。お医者さんがいないとなると、やはりここはわたしがどうにかしないといけないんだけど……、本当に素人だし、授業で習ったとは思うけど、どうすればいいかなんて分からないし――だから不安、で、手が震えてしまっている。
「……あ、の、大丈夫、です、かぁ……?」
声が震えている――、完全に失敗の恐怖に怯えてしまっているわたしがこの場にいることに、わたし自身が分かってしまった。
全然、混乱なんてしていないし、どうするべきかは、頭を振り絞って分かっているけれど――理屈を分かってはいても、体が追いついてこないのと同じで、今のわたしの場合は、心が、追いついてこない。
失敗すれば――死ぬ。
この男の人は、わたしの目の前で、わたしの手によって、死ぬ。
そりゃ失敗してもわたしのせいじゃない、原因の一つに噛んでいはいても、全部が全部、わたしが背負わなくちゃいけないわけじゃない――。
そんなことも分かっているのに、やっぱり、恐い。
どうしようもなく――どうすることもできずに。
すると、呼吸だけを連続でしていた生きている屍のような男性が、わたしの手の甲に、自分の手を乗っけて、
「……、逃げ、ろ――」
と、言う。
自分が今にも死んでしまいそうな状況でも、この男性はわたしの心配をしてくれていた。
わたしの安全を、危険を心配してくれていた。
逃げろ――と、言うということは、なにかが、こちらにくる可能性があるということ……。
生き物でも現象でも、とにかくここに、なにかがくるということは、わたしとこの人以外にも、動くものがあるということになる。
「…………」
この男性を見捨てることはできないし、したくない。
でもせっかく教えてくれた忠告を無視することもできない。
だったら――こうするしかなかった。
「んぐ、重、い……っ――!」
わたしは倒れる男性の体を背中に乗っけて、おんぶする体勢になった。
男性の傷口から流れ出る、あれだけ出ているのにまだ出るその大量の血に、確かに怖いという感情はあるけれど、今の状況で言えば、恐怖よりもどうにかしなくちゃいけない、この男性を助けなくちゃいけないという正義の心に、恐怖が押し潰されてしまっているので大丈夫だった。
一時的な麻酔のようなものだけど、今だけでも、血を見ても大丈夫なのはありがたい。
さっきは意識して見ないようにしていた景色が、目の前に広がっている――倒れてる人はみんながみんな、同じ爪痕三本の傷痕を体中に残していて、血だらけで倒れている……。
さっきちらりと見た風景と、同じ。なにも変わっていない。
そして分かってしまうのが、見える周りの男性――だけではなく、老若男女、例外なく、全員、同じ傷痕を残している。付け加えて、きっと心臓は動いていない。
背中に乗っけている男性は死んでしまいそうだけれど、でも生きている、そう分かる温かさが直接的に触れなくても、分かる。
でも周りの人達はそういう生きていることが分かる温かさが、感じられなかった。
死んでいる――手遅れで、死んで、しまっている。
「――ごめんなさい」
一言、謝ってからわたしはこの場にいる人、みんなを、見捨てた。
死人なんだから見捨てるもなにもないとは思うけど、でも、死人にもするべきことはたくさんあって、それをしないというのは、死体を発見してからしないというのは、やっぱり、見捨てていると言えるのだと思う。
わたしが見捨てたと、そう思っているのだから、自分基準で、そうなる。
だから自己満足で、きっと彼らは許してはくれないだろうけど、謝っておいた。
そうするべきだと思ったから。
「うん。それじゃ――行きましょうか」
背中にそう声をかけると、男性は、掠れた声で、
「だ、め――だ。来ている……前、だけじゃなく、後ろからも、来てい、る――」
来ている――前から? 後ろから?
後ろからは当然だとしても、前から来ている、それが、分からないなんてこと、あるのかな?
目は前についていて、視界だって当たり前に前を向いているのだから、前を向いている以上、向かって来ている『なにか』のことは、視認できるとは思うんだけど……。
でも、言われるまで気付けなかった――、ここで目の前から視線をはずすことは自殺行為だと思っていたけど、同じように後ろから来ると分かっているのに後ろを向かないというのは、同じくして自殺行為だと思い、二択の自殺行為の中で後者を選択した。
前からはまだ来ていない――確認済み。
では、後ろは?
意識を前にもいくつか残しておきながら、恐る恐る、後ろを振り向いた、けど――、
どこにも、なにもいない。
ここでさらに後ろ――さっきまで前だった方へ振り向いたら、そこに『なにか』がいるという、ホラー映画の定番のネタでもくるのかと体と心を身構えさせていたわたしだけど、
実際は、なにもなかった。
前も、後ろも、なにも――ない。
はてなマークを浮かべてきょとんとしているわたしの顔は、たぶん間抜けだっただろう。
謎過ぎて、そういう顔になってしまうのは仕方ないとは思うけど、
もっと、緊張感を持っておけば良かった、と反省。
「……勘違い、なの……?」
敬語ではないから勘違いしてしまうかもしれないけど、これは一応、背中の男性へ向けた言葉で、質問であって、確認である言葉だった。
元を辿れば『来ている』発言はこの男性からで、この男性が見たからこそ、感じたからこそ、そういう推測が立ったのだから、それを訊ねるのは当たり前だった。
だから訊ねた――けど、返事がなかった。
痛みによって気絶でもしてしまったのだろうか……、だとしたら結構、やばいのではないかと思ってすぐに男性を、地面へ下ろそうとした。
その体を、屈みながら地面へ下ろそうとしたところで――、
うん? と、違和感があった。
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