第4話 無理強いの連鎖

 足の裏の感触に、全身が震え上がる。


 自然と体を支えるための力が無くなっていって、自重がさらに重くなっていく錯覚を感じてしまい、重力に抗うことができずにわたしのお尻が地面に着地してしまう。

 その時のどすん、という程に重くはないと思うけど、そんな、女の子からすれば冗談でも話題に出したくないものだけど――今はともかく、

 どすん程ではないけれど、それに近い音が鳴ったのと同時に――ぴちゃり、と。


 水溜りにお尻をつけた音がした。


 徐々にお尻部分の服が湿っていく――生温かい液体が肉体へ触れようと服の生地を越えて侵入してくる。

 ひぃ、と声にならない声を心の中で出したところで、わたしは思わず立っていた。

 立つ時に手を地面に着いていたので、手の平は真っ赤になっているだろう――、

 そんなことは、無我夢中で、この黒で闇で暗黒な世界から逃げ出そうと全力疾走をするわたしは、気づけなかった。


 気づいていても、認めたくなかった。


 だから手の平は開かずに、ぎゅっと固めて拳のようにして、両手を一生懸命に振る。

 それで走る速度が変わる――たぶん、比べれば変化は分かるかもしれないけれど、比較の対象がないこの場面では、今の自分がいつもよりも速い速度で走っているのか、分からなかった。


 まあ、どうでもいいし。


 追われているわけでもないから、速度についてはどうでもいい――、物理的な危険は迫ってなくて、きているのは自分の中の弱い心、どうかしてしまいそうな自傷の心。

 あと少しでもこの場にいたら自分でもどうしたのか分からない。

 だから速く走っているのは、その自分から逃げるためで、

 でも言ってしまえば遅かったとしても別に大丈夫とも言える。


 だって、時間制限はないのだから。


 あるのは距離だけで――、速さは極めて言えば、遅くてもいい。


「う、く、うぅぅぅぅぅぅぅうううううううううううううっっ!」


 目を瞑って来た道を引き返す――、硬く、わたしが今までいた世界と同じコンクリートの地面から、ふわふわの柔らかいマシュマロの地面まで辿り着いたのは、足の裏の感触で分かったし、血の匂い、鉄の匂いが一気に無くなったのですぐに分かった。

 だから自然と足を止める――ゆっくりと、呼吸も、元に戻す。


 瞑った目を、恐る恐る、開ける。

 広がる世界はさっきと同じで絵本の中のような――今、あらためて見てみれば、お菓子が多くて、お菓子の家が普通に平然と立っていそうな、平和な世界だった。


 さっきの真っ黒な世界とのギャップで目がチカチカしたけれど、自然と笑顔がこぼれて、取り戻すことができた。


「…………ただいま」


 言ってから振り返ってみる。

 結構な距離を走ったから、振り返ったところで、それだけではもうさっきの世界を観測することはできない。少しでも戻れば、黒色が見えるかもしれないけど、

 でもさっきの世界はこのお菓子の世界に遮断されているように、霧よりも濃い目隠しによって、完全に見えなくなってしまっていた。


 いや、霧じゃないかも――あれはまるで、壁。


 手を伸ばしたらこつんと当たってしまう程に、間に挟まれている見えないモザイクは、壁のように存在感があって、物質感があった。

 殴ればパキパキと割れて破壊できてしまいそうに弱くはありそうだけれど、視覚的に見えてしまえば完全と言える程に通気性はない。


 その方がいいんだけど――でも。


 それでいいのかと、囁くわたしがいる。


「――いいんだよ、いいんだもん。

 だって、行ったところで、どうするのか、分からないんだし……」


 でも、善と悪、陽と陰、天国と地獄、好と嫌――、

 そんな、対になっていて相反していて相容れない要素同士が隣り合う……。


 この世界とさっきの世界はそんな関係性を持って、こうして並んでいる。

 片方だけを見たところで全貌は掴めず、

 知りたいのならばやはり二つを見てみないことにはなにも言えない。


 なにも分からない――謎は解けない。


 どうしてわたしがこんな世界にいるのか――ここは、どこなのか。


 分からないことだらけ。


 別に、このお菓子ばかりの天国みたいな世界で過ごすことに不満はないけれど、でもやっぱり、不満が無いからずっといられるということにはならない。

 謎は不安を呼んで、不安は不安定を出現させる。


 どうしようもなく気になってしまって、好奇心が刺激される。

 常識が覆って、人格が破壊される。

 破壊という木端微塵なものでなくとも、奇形に変形する。

 それを自覚的に起こさせないとなると、記憶を消す以外に方法はないだろう。


 絞り出した最善策も現実的じゃない……、だったら――追い詰められる前に、行くのが良いのかもしれない。覚悟がないままに強制的に事態に向き合うよりは、自覚的に、自分から向き合ってしまった方が覚悟している分、ダメージも衝撃も少ないし、対応できる。


 どうせ行くのだから――、なんだかんだと言ったところで結局、向かうのだから。


 待っているだけじゃ無理なんだから――、

 待っているだけで事態が好転するなんて奇跡なんだから。

 だからここで勇気を振り絞って行くことが、わたし自身のためにもなる。


 チュートリアルで停滞なんて、なにも始まらない。


 絶望は始まらないけれど、希望だって始まらない。


 停滞は一番のバッドエンドなのだから――、少しの危険も受け入れていくしかない。


 こんな世界に来てしまったのだから、もう今までの常識は通用しないし、わたしの思い通りになんていかない。絶対に――いくわけがない。

 もしもゲームマスターなんてものがいるのならば、わたしがこうして停滞していたとすれば、なにかしらの変化が起きる――たとえば。


 たとえば、この絵本の中のような世界も、さっきの真っ黒な世界のように、侵食されたりとか――そんなことを想像でも考えていたら、なんだか怖くなって、大丈夫だよね? と自分の中のいない住人に同意を求めて、答えを聞かないままに周りを探る。


 うん、大丈夫。


「……大丈夫、だと、思う――う、うん?」


 最後のうんは納得のうんだったのだけれど、いつの間にか、最後のうんが疑問形のうんになっていた。なぜなら――だって、黒がある。この世界に黒がないということはないけれど、それでも全然、この世界に合わない程の黒が、地面を染めている。


 まるで、さっきの世界のように。


 黒と赤の、世界のように。


「……へ、な、なんで!? だって、住み分けて、いるんじゃあ――!?」


 でも……いつ、どこで、誰が、どうやって――、

 この二つ、今になってしまえばそれすらも怪しい。

 この隣り合っている世界が二つしかないのか、もしかしたら三つ目もあるのではないか、という予想までも立ってしまっているけれど、ともかく、この分からない世界が二つ、干渉し合わないように住み分けているのだと、誰が言った?


 なぜ、二つはきっちり分かれていると、思い込んでしまっていた?


 不安定な世界で、二つとも、液体のようなものだとしたら、いつ混ざり合ってもおかしくはなかった。今みたいに、絵本の中のような世界を染めるように、波紋のように流れ込んできている黒の世界――、そして上書きされるのか、溶け合うのか、恐らくは後者だろうなと思いながら。


 わたしは結局のところ、自分の意思ではなく、

『黒の世界』がこっちにくることによって、自分の位置を、強制的に戻された。


 足は動かず、場所の方が迎えにきた。


 奇妙な話――、

 一歩も動かずに位置を戻された。


 さっきと同じ黒の世界――足元は赤い世界。

 そしてさっきまでの絵本の中のような世界は、後ろを振り向いても、もうどこにも存在していなかった。


 本当に――夢のように。

 幻想だったかのように。


 この世界が本当だということを信じたくないがために、

 わたし自身が勝手に作り出した、現実逃避をするための道具だったかのように――。


 そして、真っ黒は、本性を見せる――。

 姿を大きく広げて、黒の世界は、わたしを包み込む。


 覚悟は決まっている。

 実際のところは自分の力ではなく――強制的に、決めさせられた。

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