第35話 前と後ろ

 その時、ぴくりとメイビーの体が反応した――、

 彼女も、意識はしっかりしていなくとも、聞こえているのだろう……。脳が反応して、体を動かしたのだ。メイビーが、心の中で闇として感じていることであるからだ。


『私も同じ気持ちだったが、信頼されるために頑張ったさ――頑張った。ここまで、長かった』


 言いながら、ナスカがなにもない前方、斜め上を見つめる――そして舌を出して、ぺろりと自分の唇を舐めた。さっきまでとは違う雰囲気、視線、眼光――、

 ここまでの要素が揃えば、分からなくとも察することはできるだろう……。反応が早かったのはホークだった。遅れてドリュー。二人は打ち合わせをせず、声をかけることもしなかった――しかし二人の思う通りに、二人が行動した。


 二人が最善の行動を取ったからこそ、一致した。

 現状、考える限り最善手のためにそれぞれが動き出し、ドリューとホークが交差する。


 ドリューはミクロン糸線を操り、動き出そうとしていたアメンボの足を縛り、動きを止める――しかしドリューから見て、この縛りも、もって数十秒、というところだろう。

 そして、ホークはドリューが置き去りにしたメイビーを、お姫様抱っこする。そのまま、できるだけ速度を落とさずに走り抜けて、戦車の中へ戻り、運転席へ座らせた。


 未だに光を宿していない瞳をしているメイビーの肩を揺すり、意識を取り戻させようとする――が、しかしメイビーは、一点だけを見つめて、なにも言わない。

 まだ、復活できていないようだった。


 時間をかけて復活させたいところだった。メイビーのことを考えれば、この問題に、すぐに整理をつけろ、と言えるはずもない。メイビーの闇に触れることになるのだから、慎重に片づけるべきなのだ――。それでも緊急事態である今は、そんなにゆっくりとしていられる程、余裕があるわけではなかった。


 言ってしまえば、ないのだ――余裕など。

 今は、ドリューが稼いでくれているこの時間が、勝負。

 彼女には生きていてもらわなければならない。たとえ自分達が生き残れずとも、彼女には生きてもらわなくては――組織のためにも……いや、組織のため云々は、どうでも良かった。

 ホークもドリューもただ、メイビーという少女のためを想っていたのだ。


 ここを生き延びてほしい――だから、そんな腑抜けたままでは困るのだ。


 ぱちん、という高い音が戦車の中で響いた。

 ホークが、メイビーの頬を叩いたのだ――ビンタを、したのだ。


「…………!」


 はっ、として、なにが起こったのか分からないまま、彼女――メイビーの両の瞳に光が宿る。

 本調子、とまではいかないまでも、

 半分にも満たない状態だったものの、いつも通りに近いメイビーに戻れただろう。


 なにかを質問される前に、ホークは相手の言葉を潰すようにして、言葉を繋げる。


「あのアメンボは俺達がどうにかする。だから、あんたは戦車に乗って、あの唯一の出口から先に進むんだ。とりあえず上に向かって、最初の場所に戻れ。

 その後は、迷宮だから苦戦するかもしれないが、安心しろ――、アメンボに追われる脅威だけは、完全に取り払ってやる。今後のことも気にするな、大丈夫だ――。

 そして、抜けられたらそのままゴールを目指せ、俺達もすぐに追いつく」


「追いつくって、そんな……距離が――」


「あんたには優勝してもらわないと困る。優勝するためには生きていてもらわなければ困る――俺達の目的に合っているから、必要なことだから。

 だから協力しているだけだ。あんたのためだとか、思ったわけではない」


 これは嘘の言葉だと、現在のメイビー以外の者ならば、誰でも分かるだろう。だが、精神的に一人、取り残されているメイビーは、その意味を、そのまま受け取った。

 信頼していた仲間に裏切られた気分を味わい、少ししゅんとするが、そこで、気づく――、

 自分は、彼らのことを、ここまで信頼していたのか、と。


 少し前ならば、信頼はしていたが、それでも裏切られたところで――やっぱりな、と思う程度である。でも今は、裏切られて、悲しくなった――、

 裏切らないで、味方でいてほしいと心の底から思った。


 この数日間、共に行動をして――メイビーは彼らのことを仲間だと思えるようになった。

 思えるようになったのは、それ程に、彼らと共にいることが楽しかったからだ。

 この関係を、この縁を、切りたくなかったから――だからメイビーは去ろうとするホークの手を引っ張って、その場に留まらせる。


 ホークからすれば話はもう終わって、あとは自分のできることをするだけだった。だが、メイビーからすれば、まだ話は終わっていない。

 ここでホークの言葉を否定させ、縁を切らせないことが、いま自分がするべきことだと思い込んでしまっている。


 メイビーはやるべきことを、間違えている。


「行かないで……行かないでくれ! 私を一人にしないでくれ! 私は、私は――」

「――メイビーは世界王だ」


 ホークは震えるメイビーの体を落ち着かせるために、彼女の両肩に両手を乗せた。

 そして、膝を曲げて視線を下げ、メイビーに合わせる。


「だからお前の味方は全国民だ。

 俺達だって――そうだ。一人なんかじゃない。お前を一人にするもんか」


「だったら、傍にいてくれ……っ、どうして、どこかに行くんだ!」


 言いながら、瞳から涙を流しながら、メイビーの手がホークの服を掴む――。

 絶対に逃がさないように、自分の手から、こぼれ落ちないように。


「私は一人じゃない――だったら、一緒にいてくれよ……ッ!」



「それはできない。俺にはやることがある」



「あ……」


 ホークの強い力によって、メイビーの手が、服から剥がされる。

 離れていくホークを再び掴もうとしたが、しかし遠く、必然、宙を掴もうとしてしまったが、掴めなかった。その時に自分は、なにも掴めないのだと悟ってしまい、心の芯がガラガラと崩れたような音が聞こえた、けど、


 だが、なにも掴めずに宙を彷徨っていた手が、掴まれた――そして。


 手の甲に柔らかいなにかが触れたと感じた後、ホークが膝をついていることに気が付いた。


「へ、え……?」

 メイビーはきょとんとして、ホークを見つめる。


 ホークがなにをしたのか、見ていなかったので、実際のところは分からなかった――だけど感触と体勢で、なにをしたのか分かってしまって、メイビーは赤面した。


 上手く言葉が発せず、

「う、あ、あ……」と言葉が続かない状態だ。


「――いいから、さっさと行け。

 あと、今のは、証明だ。一人にはしない。それはドリューも同じだろう」


「い、今、手の甲に、き、き、キスを――」


「言うな! 言って損する奴しか、この場にはいないんだ!」


 珍しくホークも少しだけ、頬を赤くしている――、

 その様子に、メイビーもおかしくなったのか「――ははっ」と笑った。


 この状況で笑えることができる。

 そうできる程に、余裕を取り戻すことはできたらしかった。


「じゃあ――やるべきことをやるだけだ、あとはな」

「そうだな――私は、逃げ延びればいいだけか――」


「俺とドリューは、あのアメンボを倒すだけだ」


 やっと、やるべきことをきちんと見ることができた。

 同時に二つのことなど、人間、できたところで集中力が分散してしまう。


 分散した集中力の一つ一つは弱く、本来の力など、存分に発揮することはできないだろう。

 だが逆に、目的が一つならば、全ての集中力を向かわせることができる。

 本来の力を、存分に発揮することができる。


 もしかしたら、枠外の力を出せるかもしれない。


 メイビーは首をこきこきと、手を使わずに、左右に倒すことで鳴らし、ホークは指を折って、パキパキと鳴らす。なにをするにしても、こういう前段階での準備というものがある。

 気持ちを切り替える、そういう儀式のようなもの。


 気合が入った二人は、真逆の方向へ、それぞれ進んで行く。


 戦車の天井部分の扉が開き、閉じる。

 そして戦車の中に気配は一つしかなく、メイビーだけ、ただ一人。


 沈黙の空間で、深呼吸をする音だけが聞こえてくる。

 しばらくして、一定のリズムを刻んだ深呼吸がやみ、

「よし!」とメイビーが声と同時に、アクセルを踏んだ。


 ホークとドリューを残して、メイビーは突き進む。


 一人で挑む迷宮監獄への恐怖はまったく、微塵も存在していなかった。

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