第5話 前日の死者

 フルフェイスヘルメットを被っている少年が、まだフルフェイスヘルメットを被っていない頃――つまり、レースが始まる前、そこから何時間も遡る、前日の事である。


 フルフェイスヘルメットを被っていない少年は、当たり前に素顔を晒して、顔の皮膚を外気に触れさせていた。男子にしては長く見える黒髪に、同色のメガネ。ここまで重なれば分かるだろうが、この少年は黒が好きなのだった。

 彼の意見を引用すると、「黒は目立たなくていい」――らしい。だからと言って全身を含め、自分が所持しているあらゆる物を黒で統一させるというのは、逆に目立ってしまうのではないかという可能性は、少年の中にはないらしい。


 一ミリも。

 まったくないらしい。


 目立たないように遠慮しながらも、自信は満々らしかった。


 そんな彼は現在、一つの部屋に向かっている最中だった。自分の部屋から出て同じ屋根の下、同じ建物内の一室、上司の部屋へ向かうために、廊下を無表情で歩き続けている。


 数分前、上司からの電話で、寝ているところを起こされた。しかも、具体的な用件がなにも言われないまま、ただ部屋に来い、という、お願いではなく、あれは命令だった。


 脅迫――とも言える。


 なぜ、せっかくの休日に呼び出されなければいけないのか。不満はある。だが、相手は上司なので、軽い気持ちで言い返すことはできない。

 言うには、それなりの覚悟が必要だ。


 微かにずれた黒メガネを調整するために、指でくいっ、と上げる。上げながら、溜息を吐いた。疑問は会えば解消される……文句は、今は飲み込んでおけばいい。

 基本的に休日は干渉されない、はずだ。少年が所属するこの組織が、休日に組織の人間を呼び出すということは、異常事態、だと言えることだろう。


 重要な――用件。

 つまり――任務。


 呼び出され、言い渡されることと言えば、それくらいのものだが――ここで考える事は呼び出された内容のことではないだろう。いや、もちろん内容のこともそうだが、いま考えるべきことは、休日に呼び出されたということは、急を要するということと、自分が選ばれたということ――それを最優先で考える必要がある。


 どういう――任務なのだろうか?


 いきなり言い渡されて、上司の前で動揺するのもあれなので、自分なりに考え、最低最悪なシチュエーションを考え、心の準備をしておくことにした。

 そうこうしている内に、誰ともすれ違うことなく、上司の部屋に辿り着いた。休日なので仲間は全員、部屋の中に引きこもっているのだろう――、だとしても、廊下で誰ともすれ違わなかったのは、少し違和感だったが、すぐに意識を切り替え、扉をノックした。


 返事も待たず、扉を押して開く。中にはテーブルを挟んで、ソファが二つある――、その一つに、見慣れた上司の姿があった。

 少年よりも年上で、メガネというポイントが共通している。見た目は若く見える。そして年齢も、実際に若い方だろう。だが、小学生で例えれば、少年が入学すれば、上司は卒業してしまうくらいには、年齢差があった。


「……お、来たな来たな。おはよー」


 上司は片手に飲んでいたコーヒーを持ちながら、空いている逆の手を振っていた。


「……おはようございます」


 さすがに幼稚だと考えてしまうので、手は振り返さず、あいさつだけを済ませて、近づいて行く。ソファに辿り着いたところで、ちらりと上司を見る。

 彼は、「なんだよもー、振り返してくれてもいいじゃんかよー」と、拗ねていたところだったが、視線に気づいたのか、「いいよいいよ座ってー」と手を差し出してくる。


 許可を貰ったところで、お辞儀をしてから座った――すると今度は、逆に上司が席を立つ。


「コーヒーでも淹れてくるよー」


「いや――いいですよ。飲みたくなれば、自分でやりますから」


「そうは言ってもねー、今日はキミには、客人として来てもらっているわけだからね――こっちとしても、おもてなしはしたいところなんだよ。

 これからキミに頼む予定の『お願い事』もあるわけだしね」


 それは、そのお願い事があまり良い内容ではないから、おもてなしをすることでポイント稼ぎをしているように聞こえてしまうが――、

 と、少年の中の不安がさっきよりも倍以上に膨らんでいく。


「……そうですか」


 どうせ断ることはできないので、ならば得るものがないままお願い事を受けるよりも、得るものを得てから、お願い事を受けた方がいいと一瞬で判断し、

 上司の行動にこれ以上、拒否を示そうとは思わなかった。


 ここまで来れば――そういう事情があれば、こちらから頼む程ではあるが。


 戻ってきた上司に差し出されたコーヒーを、一口飲んでみる。


 う……、と声が出る、にとどまらず、表情に出るほど苦かった。


「おいおい、そこまで嫌な顔をしないでくれよ――そんなに不味かったのかな?」


「いえ、そういうわけでは――ただ、苦いだけです……。

 不味いなんてそんな――まあ、苦過ぎて、味なんて分からないですが」


 一口で充分だったので、二口目は飲む振りだけをして、すぐにカップをテーブルにゆっくりと置いた。元々、ここにはコーヒーを飲みに来たわけではない。上司との付き合いで飲む必要はあるだろうが、本題はこれではない――、用件は別にある。


 コーヒーをのんびりと楽しんでいた上司も、部下である少年の、話を聞く態度に気づいたのか、同じようにカップを置いた。そして、ふむ、と一つ、間を空けてから言う。


「――明日、開催される『王位継承戦』は知っているよな?」


「ええ、そりゃあ知っていますよ。ここ最近では、そのレースに出るために、俺達は動いているわけですからね――。優勝するために、マシンも強化していますし。

 他にも搭乗者へのバックアップなど、管理など、充分以上にしていますから」


「ん? ――ああ、ここ最近の活動は、なんとなくでやらせているだけだよ?」


 ――は? という間抜けな声が、少年の口から飛び出た。


 なんとなく? 今までの作業に、必要性はなかったと?


「必要性はないけど、なくてもいいんだけど、あっても邪魔になるわけじゃないから、作業してくれてとても助かってはいるけどね。

 でも別に、組織全体でおこなうことじゃなかったかなー、と思ってはいるよ」


「……なんて雑な命令だ」


「そりゃあ『上』に言ってくれないと――、それに、明日のレースの結果が、この組織のこれからを決めるわけだからね。目的達成を必須としている以上、保険のために行動しているよりは、目的達成のために、極小のことでもやらせておくべき、との判断だと思うよ」


 明日の結果が良くとも悪くとも、どちらにせよ、大きく動けるのは結果が出てからだ――、しかし、それまでやることが特になくとも、構成員の大半を遊ばせておくこともない。

 休日はしっかりと、いつも通りに取るが、仕事の時間はいつもと変わらず――ためになっているかどうかは怪しいところだ、という判断ができるところもあるが、それでも――なにかをやらせておくべきだ。


 そういう『上』の判断だからこそ――か。


 必要性はなくとも、ただ動かすために――、


 なにもしないという、無責任な、組織から一時離脱してしまうような状況を作らないための、処置なのか。


「……そうですか。確かに、サボる連中はいますからね。どこにでも、その辺にでも」

「なんだ、チームメイトに恨みでもあるのか? 仕事の最中に裏切られたとか?」

「そんなことは俺がさせませんが――他チームのそういう場面を見てしまいましてね」


 その光景を想像し、苛立ちを思い出す。


 眉の形が歪んでしまうと自覚した少年は、咄嗟にコーヒーを飲み、眉を変化させてしまうその行動を『コーヒーが苦いから必然的に起こった』ということにした。


 別に誤魔化すことでもなかったかもしれないが、反射的だったので回避はできなかった。誤魔化すことでもなかったかもしれないが、誤魔化さないでもいい、というものでもなかった、とも思ってはいたので、まあ、結果、どっちでも良かった。


「キミもなかなか、苦労しているわけだね――主に自分の制御について」

「……俺のことはいいですよ。それよりも、なぜ俺を呼んだんです?」


 そうだそうだそうだった――と上司は、少年をこの部屋に呼び出したこと自体を忘れていたのか、くすくすと笑う。二人合わせて重なる二つのレンズ越しに、二人の目が合う。

 そして上司は、少年へ用件を言う前にまず、一言で告げた。


 長ったらしい前置きはなく、焦らすような、溜めているような演出でもなく、

 知らせるべき事実を単純に知らせただけの――業務連絡だった。


 一言で言った効果は強く――、少年の心に、大きな穴を空ける程の衝撃があった。



「――今朝、明日のレースに出るはずの予定選手が、死んだよ」

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