第41話 黒城弥生は道しるべ①

「さて、どうしようかな」


 及川と別れた僕は自分のクラスに行く。


 サッカー部の朝練は7時開始だが授業の開始は8時40分から。


 2時間弱空いているのでクラスには誰もいない。


「仕方ない、サッカー部の見学でもさせてもらおうかな」


 時間が余り切っているので僕はそんなことを考えた時、扉がガララと音を立てて開いた。


「あら、やはりいたわね」


 凛とした声音に含まれるわずかな感心の色。


 本人にその気がなくとも否応なく注目を集めてしまう存在。


「黒城さん……どうしてこんなに朝早くに来たの?」


「それはもちろん、時宮君が朝早くに来ると知ったからよ」


 当然とばかりに黒城さんは僕の隣の自分の席に腰を下ろした。


「そういえば昨日のメールでそう伝えていたね」


 黒城さんだけ僕の行動を知らないというのはばつが悪いと考えた僕は一言メールで朝練に行く及川と話をする旨を伝えていた。


 黒城さんからは『そう』だけだったので記憶から消していたが、まさか朝早くに来るとは思わなかった。


「知ってる? 時宮君。若かりし頃の池田先生は毎日早朝に戸田先生から薫陶を受けていたのよ」


「ああ、確か人間革命にそんな描写があったよね」


 病に蝕まれた戸田先生の晩年に命を削る形で池田先生に渾身の授業を行った姿。


 僕はこれまで大病を患わった経験がないけど、自分のことで精いっぱいな時にそんな他人のことまで手を回すというのは想像を絶する信念を持っているんだと思う。


「私も何度もその場面を読み返しているわ。いつか私も自分の命を懸けて創価思想の素晴らしさを説いてみたいわね」


 目を輝かせる黒城さんに対し、僕は自然と口を開いて。


「今、やってるんじゃない? 貴重な朝の時間を使って授業と何の関係もない創価思想を僕に教えようとしているのだから」


 僕なら絶対にできないよね。


 ギリギリまで布団で寝ていると思う。


「フフフ、お世辞をありがとう時宮君。じゃあ、それでは始めようかしら。創価思想の神髄というのを私の我見になるけど話させていただくわね」


 上機嫌になった黒城さんはそう前置きしてカバンから分厚い御書とプリントを取り出して僕の前に置いた。


「ねえ、まさかここでやるつもりなの?」


 僕の顔が引きつるのは本当だ。


「僕、全然心の準備ができていないのだけど」


 正直、創価学会の教学は広いし深いから相当頭を使う。


「授業前に疲れることはどうかと思うな」


 僕が何を言おうが言わまいが黒城さんの行動は絶対に変わらない。


 無駄だと知りつつも僕は抗議の意思を示した。




 一週間後。


「--と、いうわけで開目抄は終わり。よく頑張ったわね」


「……ありがとうございます」


 僕はそう言い終わると同時に机に突っ伏す。


 正直知恵熱が噴き出てどうにかなりそうだ。


 しかもこれからが学生の本分としての勉強があるのが本気で辛い。


「あらあらどうしたの時宮君。開目抄って結構メジャーだからそんなに疲れる内容ではないでしょう」


 黒城さんが本気で分からないという風に首を傾げてくる。


 うん、内容自体は何度も習って知識にあるから大丈夫だよ。


「だったらもう少し緩急をつけてよ。息継ぐ間もなくやられたら溺れちゃうよ」


 抗議中、黒城さんは僕の集中力を途切れさせてくれない。


 少しでも意識が別のところに飛んだり、視線が変わると。


『時宮君、ちゃんと聞いてる?』


 即座に冷たい視線と共に注意がくる。


 正直、気の休まる時間がない。


「何言っているよ。御書の内容に緩い部分なんてあるわけがないわ。御書の中一文字一文字が日蓮大聖人が心血を注いで書き上げた文字よ。そのことを自覚しなさい」


「……うう」


 黒城さんは創価学会に関しては一切の妥協がなく、半端な気持ちの意見を言えば烈火のごとく詰められる。


 なので僕は反論できず、ただ額を机につけたまま頭をぐりぐりするしか抗議の意思を示せなかった。

 

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