第36話 過去の自分
自分の方が正しいはずなのに、周りは間違っていると口々に囀る。
あの様相はまさしく地獄界。動けば動くほど周りから反感を喰らい、かといって何もしなければ今度は自分の気が狂いそうになる。
あんなもの、二度と経験して堪るか。
そして、姫神さんが泣きそうになっているのも理解できる。
その地獄さながらの様子を間近で見なければならないだけでなく、姫神さん自身にも悪意が及ぶ。
実際、姫神さんも仲の良い友人から及川から離れるよう“忠告”され、何人かは疎遠となってしまった。
「やるせないよな」
確かに僕は一時期及川と姫神さんの不幸を願った。
だけど、今はそんな悪意を抱いたことを後悔している。
「良いことじゃない。私も同じことをしていたわ」
だが、黒城さんはよくやったといわんばかりの言葉を口にする。
「やっぱり黒城さんもそう思うか?」
己の行為を黒城さんに認められて嬉しいのか及川は頬を少し紅潮させる。
「ええ、そうよ。たとえ世間が黒と言っても私が白と思うのなら白よ。その気概で私はこれまで生きてきたわ」
うん、そうだろうね黒城さん。
黒城さんが周りの意見に合わせて媚びをうっている姿なんて想像できないよ。
そんな想像をできなくさせるほど他の一線を画す黒城さんだから許されるんだけどね。
「そうか、そうだよな。ありがとう黒城さん、元気が出たよ」
勇気づけられた及川は乗り気だ。
まあ、及川も能力面でいえば学年どころか学校トップクラスだから時間さえかければ元に戻ると思う。
及川の行動は時と場所が最悪だったとはいえ間違っていないし、僕は逆に及川らしいなと思っているし。
及川は一時の幸運や空気でスクールカーストトップになったわけじゃなく、確かな実力を持っている以上、黒城さんの言葉は間違っていないのかな?
「及川君……」
うん、姫神さんが何を言いたいのか分かるよ。
及川が折れれば――クラス全体に向けてあの件はやり過ぎたと謝ればクラスの雰囲気はすぐ戻るのにと言いたいようだね。
僕もそう思う。
及川を敵視しているクラスメイトや先生は及川と自分達のどちらが悪いのか薄々勘付いている。
及川は、自らに非があると分かればどんなに屈辱的でも無様でも頭を下げられるだけの度量を持っているが、それを彼らに求めるのは酷というもの。
むしろ、悪ければ悪いほど意固地になっていってしまう。
彼らクラスメイトや先生は謝れるだけの理由を探している状態なので形だけでも及川が歩み寄れば全て上手くいくだろう。
「及川、嘘でも良いからクラスメイトに謝れるか?」
僕の問いかけに及川は何言ってんだと言わんばかりに笑って。
「無理だろ。この件はどう考えてもあいつらが悪い、だから折れるわけにはいかないだろ?」
うん、それが及川だ。
及川は何時だって正しく、そして正しくあろうとしており、それを実行できるほどの能力と人間性を持っている。
「うん、そうだね。聞いて悪かった、ごめん」
僕は頭を下げたのは姫神さんの顔を見たくなかったから。
多分、姫神さんは泣いているだろう。
ごめんね、姫神さん。
こればかりは姫神さんの希望を叶えるわけにいかない。
何故なら、そうなってしまえばクラスは元通り――僕を追い詰めた取り巻きや先生も元通り。
時が経つごとに薄れ、いずれ完全に忘れ去られるだろう。
冗談じゃないよ。
僕は彼ら彼女から謝罪をもらっていない。
あれは単に頭を下げられただけで、心の底では納得がいっていないのが見て取れる。
だから僕はこの件に関してはスルーでいこ――
(南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経)
待て、時宮。
お前は本当にそれで良いのか?
姫神さんが悲しんでいるのに僕は何もしないのか?
――そうじゃないだろう。
僕自身の感情は脇に置いて考えよう。
創価学会の信心原則に則って姫神さんの悲しみを止めれば良いんだ。
昼食が終わったら姫神さんにメールしよう。
この場で言ったら及川はもちろん黒城さんも反対してくるに決まってる。
ズキリ ズキリ。
姫神さんの喜ぶ顔を思い描くたびに軋む自分の心。
(南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経)
僕は幾度となく胸中唱題を繰り返して悲鳴を抑え込んだ。
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