第54話 夢のまた夢 (3)
「あたしもさ、いろんな政策に口を出したけど、基本的には目の前の困っている人を助けたいだけなんだよねぇ。この人を助けるならあの人も、って感じでどんどん広がっちゃっだけど」
「それでいいと思うぞ。最初はコネでも、それが皆に平等に適用されるなら問題はない」
笑顔を絶やさず同意してくれるペトルスの顔をしばらく見ていたテオドラだが、「ちょっと手を貸して」と、手助けを受けながら寝台で半身を起こした。鈍い痛みが胸を貫くが、ペトルスを心配させないために笑い顔を崩さない。
そして。
「本当にありがとうね、リックス」
穏やかな顔でペトルスを見つめ、感謝の弁を述べる。
「いきなりどうした?何に対しての感謝か?」
「今までの、いろいろなことについて、よ。
あたしも、皇后になる人生が待ち構えていたとは思いもしなかったけど、やってみたら思ったより楽しくて。どうしたら多くの人が笑顔にできるかを考え、実行し、改善する。自分に政治の適性があるなんて、リックスに出会わなければ絶対気づくこともなかったわ」
「だから言ったろう?ドーラは政治家向きだと」
確かに、求婚の時にそんなことを言っていた。ペトルスの人物眼が確かなのはこの20年を超える結婚生活でよく判っていたが、自分についてもすでに見切られていたんだなあと思う。
「それなりに楽しかったわ。結婚にも否定的だったあたしを、『まあ悪くはないかな』と思わせるくらいには」
「これで終わり、みたいな言い方をするなよ。大丈夫だ。今回も神が救ってくださる。ドーラの方が20も若いんだからな」
そういうペトルスの顔は、本心から神の恩寵を信じている顔だ。
『以前は教会に対しても、フラットに対処していたものだけど……』
ペトルスはテオドラの快癒を疑っていないようだが、テオドラ自身はもう長くないと感じている。
正教会は皇帝の強力な支持基盤ではあるが、かつてはペトルスも教会の手綱をとり、時には弱みを握って勝手なことをしないようにあやっていたものだが、彼も歳を取り信心深くなった。柔軟な考え方が後退し、自分の考えに固執、他者の言を受け入れられにくくなってきていた。特に教会に対する絶対的な信頼は何を言っても揺るがない。
老化は誰にでも起こることであるのだが、以前の鋭敏さを知っているだけに寂しさをを覚えてしまう。
「この楽しい人生も、リックスが強引にあたしを選んでくれたからだからさ、だから感謝」
マイナスな考え方はあえて出さず、穏やかな表情で話すテオドラ。
「それを言うなら、わしもだ」
半身を起こしたテオドラの手を持ちながら答えるペトルス。
「わしも自分の人生に伴侶は必要ない、とずっと思っていたクチだ。テオドラに会うまで独り身でいたことからもわかるだろう?」
男女とも結婚して一人前、というのが帝国の常識だ。にもかかわらず40代になって結婚をしていなかったのだから、強い意志を持ってしなかったと見るべきだ。男色の噂が立ったのも無理からぬところだろう。
「だが、ドーラに会い、話すうちに、自分には必要な人だと思った。
いや、違うか。
好きになったのだな、あれは。
今だから正直に言うが、自分が異性を好きになる。そういう感情が自分にもあるに驚いたし、戸惑ってもいた。40にもなってみっともないことだが」
「あたしはリックスをビジネスパートナーと思っていたから、手練手管を使わなくていいのは楽だったけどねー」
娼婦として接するなら『仕事』だし、相手に惚れさせるためのテクニックをいくらでも使っただろうが、ペトルスはそれとは違う認識だった。
「それがよかったのかもしれん。わしというか、わしの持つ権力を狙って、近寄ってくる女は途切れることがなかったからのう。結婚はしないと公言していたにもかかわらず、の。
その点、そういう誘いをしてこないドーラは安心できたのだろう」
「うまくハマったんだねぇ、あたし」
「この
だから……、だからな。
これからも、わしを支えてくれ。わしより先に逝かないでくれ……」
ペトルスが不安げな、懇願するような表情でテオドラを見つめていた。
『リックスも、本当のところではわかっているのね。あたしの余命が少ないことを……』
神の恩寵があるから大丈夫、などと言いふらすのも、本音はいなくなってしまう心配を覆い隠すためなのだろう。
「分かったわ。頑張ってみる」
そう言って穏やかに笑うテオドラだが、それはペトルスの気持ちを慮ってのことだ。
『先に逝ったら、ごめんねぇ』という本音は、ここでは言えなかった。
ふう、と軽くため息をつく。
「おお、すまん。疲れさせてしまったか」
慌てたように、ずっと握っていた手を放すペトルス。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ」
にっこり笑って返すテオドラ。それでも多少の疲れは感じたので、半身に起こした身体を再び寝台に横たえる。
「あ、それと」
寝台から離れようとしたペトルスの後ろ姿に、テオドラは話しかけた。
「愛しているわ、リックス」
♢♢♢
テオドラが亡くなった後も、ペトルスは15年以上生き、皇帝として帝国を統治した。
だが、ペストによる人口減少の影響は大きく、広げすぎた帝国領を維持できるだけの財源はなく、慢性的な財政難に陥っていた。
にもかかわらず、上手くいかない帝国統治に匙を投げたのか、あるいはペトルスは亡きテオドラを想ってか、教会が言うままにいくつもの教会建築に血道を上げ、財政難を悪化させていた。
一方で、政治には倦む態度をあからさまにし、ナルサスの進言にもうるさそうにするばかり。それどころか股肱の臣で軍部トップのベリサリオスを「謀反の疑いあり」として投獄さえした。
『麒麟も老いれば駑馬にも劣る』の格言通りの姿を晒したペトルスに対し、「皇后陛下が生きていらっしゃれば……」と愚痴をこぼす臣下も少なくなかったという。
在位38年、82歳でペトルスが崩御した後、帝国は崩壊へと向かった。
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